僕と一緒に、楽園へ行こう。
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ここはとある木造アパートの一室。
薄暗い夕方にもかかわらず汗が滲むほどの暑さ。エアコンも無い部屋の中は空気が篭り、どんよりとしている。
そんな中部屋の明かりもつけずに、一人の男性がベッドの上で眠るように横たわる女性を愛おしそうに見つめていた。
「誘拐だなんて、本当に人聞きが悪い。……君もそう思うよね?」
語りかけるような口調に、誰も返事はしなかった。
「僕は君を守っているだけなのに。あんな風に言われちゃあ心外だよ」
ふはっ、と笑いながら目にかかる髪の毛を後ろに流した。そこから覗いた瞳は、じんわりと澱んで揺れていた。
「やっと静かになったし、ちょっと懐かしい話をしようよ。
───覚えてる?君と僕が、半年とちょっと前。最初に出会った日のことを」
恍惚を浮かべる彼は、闇に紛れるような黒髪と締まりが無く垂れ下がる目尻が印象的な、若い男。
一言で言えば優しい顔立ちをしている。
「……あれは、運命的な出会いだったよね」
対して何も喋らない彼女は、艶やかなサラサラのロングヘア。目を閉じているからわからないものの、毛穴一つ見えない肌はとても手入れが行き届いている証拠だろう。綺麗に施されたピンク系のメイクが、可愛らしい容姿を容易に想像させた。
「あれは、突然の雨が降った日のことだったね」
どこかストーリーテラーのように語り始めた彼の口調は、とても穏やかなものだった。
「僕が突然の雨に濡れてしまって雨宿りをしていたら、君が現れて僕にタオルを渡してくれたんだよね。それから、帰るに帰れない僕を見て傘までくれた。僕はその時の君の笑顔に、一目惚れしたんだ」
一つ一つ、指を折りながら数えるように話す声は、とても優しいものだ。
「ほら、あの時の傘だよ」
そう言って見せたのは、ワンタッチ式だがそのスイッチが壊れてしまった、どこにでもある安物のビニール傘。
「嬉しくて、ちょっと壊れてたけどずっと使ってるんだ。これは君からもらった大切なプレゼントだからね」
しかし微笑む先の彼女は、何も言わない。
「僕はあの日、出張でこの街に来ていてね。見知らぬ場所だったんだ。だから道まで教えてくれて、本当に助かった。帰ってからもこの傘を見ながらあの時の君の笑顔を思い出すと、どんなにキツい仕事にも耐えられた。君は僕の心の支えになっていたんだよ」
袖口に上品なフリルがあしらわれた半袖の白いトップスから覗く細く長い腕。
傘を片付けてから跪くようにしてその手をそっと持ち上げた彼は、手の甲にキスを落として微笑む。
ひんやりとした肌は柔らかく、それだけで彼の興奮を煽った。
「……だから、悔しかったなあ。もう一度会いたくて、仕事を辞めて君に会いにこっちに引っ越して来たのに。君は、僕以外の別の男にあの素敵な笑顔を見せていたんだから」
唇を撫でると、ほんの少しだけ残っていたグロスの淡いピンク色とキラキラとしたラメが彼の親指に着いた。
「しかも、君は僕のことを覚えていなかった」
悔しかったなあ。
呟いた彼は、指に着いたグロスをぺろりと舐める。
ほんのりそれが甘いような気がして、彼はまたその顔に恍惚を浮かべた。
それは、側から見れば異常な光景だ。
しかし彼は、それが異常だなんて微塵も思っていない。ただひたすらに、彼女と一緒の空間にいることの幸せを噛み締めていた。