箱入りワガママ公爵令嬢は誕生日プレゼントに貧乏貴族を所望します
13 ワガママなキス
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2人の話題が途切れた、その場には滝の音だけが響く。
「先日ティルヴァーン公爵が来ましたよね。」
シエナは思い切って話し始めた。滝の方を見ていたエストもシエナに向き直る。
「ご存知かもしれませんが、私の名前はシエナ・ティルヴァーンと申します。」
「うん。」
簡素で短い返事だった。やはりエストはシエナが公爵令嬢だと知っていたようだ。
「ここで1ヵ月過ごさせてもらって、初めて私は私のために生きることができたのです。」
「初めて?」
「私は今まで、まだ見ぬ結婚相手のために生きてきました。
『シエナ』でなく『ティルヴァーン公爵の娘』として、です。」
自分のことを話すのはひどく緊張する。語尾が震えていることに気づく。
「ここにいると、自分を知ることができました。
誰かのための勉強や誰かの好みではなくて、私自身はこれが学びたかったのか、これが好きだったのか、って。
小説が好きな理由は、別の誰かになれるからなんです。
私は屋敷からほとんど出ることもないけれど、小説の主人公になればどこにでもいける。物語の主人公の感情をわけてもらえる。
でもここで生活をして、好きなものを見つけて、初めて私を知ったのです。初めて『シエナ』になれたんです。」
伝わるだろうか。
ひんやりとした空気の中、語尾だけでなく全てが震えてしまう。
「うん。」
エストはうなずいてから、左手をシエナの右手に重ねた。よく見るとシエナは手まで震えていたようだ。
冷たく固まった指先にエストの熱が伝わり、シエナの震えが止まる。
彼の手は、シエナを肯定していた。
「大丈夫、君が好きなものは俺も知ってる。
小説、魔法史、庭で魔法を試すこと、トマト、庭いじり、買い食い、それから……。」
エストは右手を指折り数え始めた。
彼が、好きなものを挙げるたび、シエナという人が出来上がっていくようだ。
自分の好きなものを知る。そして、それを誰かが知ってくれている。
これはこんなにも幸福なことだったのか。
「ふふ、全部正解です。でも、正解できるのはきっとあなただけでしょうね。」
「君が好きなものなんて、見ていたらすぐにわかるだろ。」
「きっと私の家族含めて、答えられる人はいませんよ。」
だって、シエナ自身もここに来るまでは知らなかったのだから、自分の好きなものを。
「好きなものがたくさんできました。でもそれは全て封印しないといけないのです。」
「どうして?」
「公爵令嬢は魔法も必要ないし、庭で泥だらけになることもありません。街に気軽に遊びにも行けませんよ。
今日で終わりです。夢の日々でした。」
「……。」
エストは何を思っているのだろうか。こんなことを言われても困るだろうか。
でも、言うんだ。夢から醒めてしまう前に。現実に戻ってしまう前に。
「エスト様が私の好きなものたくさん並べてくださいましたけど、1つ足りていません。」
「ああ、庭の花を忘れていたと思ったんだ。」
「違いますよ。エスト様です。」
「な……。」
裏返った声でこちらを向くエストの顔は赤く、瞳はまた夜空のようだった。
そんな彼の様子にシエナの緊張はほどけていく。切り出してしまえばあとは簡単に言葉が滑り出てくる。
「私、エスト様が好きなのです。」
「公爵令嬢の君が?」
「ええ。よくある言葉ですが、エスト様といて本当の自分に出会えたんです。
公爵令嬢である私に対して、買い食いが好きだと思うのはあなたしかいませんよ。」
「確かにその言葉は失礼だったな。」
「あはは、違うんです。嬉しかったんです。」
「嬉しいか?」
「嬉しいですよ!」
シエナは声を出して笑った、この1ヶ月、何度大声で笑っただろうか。王都では咎められていたことだ。きっと一生分笑った。
「俺も……君のことが好きだよ。」
エストはボソボソと切り出した。瞳は夜空のままで。
「君を見ていると嬉しいんだ。君が嬉しいのが嬉しい。
恋愛については全くわからないんだ、でもこれが恋なんだろう。」
本当に同じ気持ちだったんだ。シエナ・ティルヴァーンだとわかっても恋だと言ってくれる。
涙が出そうなくらい嬉しい。でも、それで十分だった。
エストが一緒に逃げようか、と言ってくれたなら、公爵令嬢としての自分を捨てる覚悟はあった。
ただの買い食いが好きなシエナとして生きていこうと思えた。
でも、エストには夢がある。何もせずとも恵まれた状況にいる自分が、夢のために努力を続ける人の未来を潰すわけにはいかない。
夢が醒める前に、同じ気持ちでいられた。十分だった。
でも最後にもう1つだけワガママがある。
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シエナが、自分を好きだと言う。期待していたことではあるが、実際に言葉にされると信じられない。
まだ手は重ねたままだ。この手をそのまま取って、逃げ出してしまえたら。
そう思うのに、それ以上言葉に出すことは出来なかった。
「エスト様、最後にお願いがあるのです。」
「お願い?」
「キスしていただけませんか。」
「キス……!?」
動揺して重ねていた手を離してしまった。シエナは凛とした表情で冗談ではなさそうだ。
「はい。ここには休暇という設定で滞在させてもらっていましたが、父には恋人をお願いしたのです。
今後結婚する身ですし、純潔を守ると誓いましたが、恋人ができることは了承済なのです。」
屁理屈な気もするが、彼女は至って真面目に言い放つ。
「恋人でいられるのは、今日だけですが……どうでしょうか。」
どうもなにも、エストにとっては嬉しい申し出ではある。
嬉しいよりも動揺が勝っていて、何も頭が回らないのだが。
「うん。」
シエナの瞳に自分がうつる。そして彼女の瞳は閉じられた。
彼女の右肩にぎこちなく触れる。触れた肩は少し震える。そのまま顔を近づけた。
「童話では王子様のキスで夢から醒めますからね。」
触れた唇が離れると、シエナは照れ隠しのようにつぶやいた。
おどけて言うが、頬はピンクに染まっている。潤んだ瞳がエストを見上げる。
確かに、これは童話に出てくるお姫様かもしれない。そう思うほど可愛かった。
ここは童話ではないのだから、夢から醒めてほしくなんてないけれど。
エストはもう1度顔を近づけた。