初恋の再会は金木犀の香り
プロローグ
金木犀の甘い香りがする。
風が吹くたびに甘く濃厚な香りが部屋に流れてくる。
オレンジ色のかわいい花。だけど香りの自己主張は強い。
この香りをかぐと、思いだすことがある。
それは初恋の人に告白したこと。
撃沈されて、涙したこと。
幼稚園から大学院まである一貫教育の学校に通っていた。
このままみんなで一緒に中等部へ進むのだと思っていたら、彼は別の学校に行くのだと聞き、驚いた。そんな選択肢があるのかと。今思えば、当たり前のことなのに。
彼は成績優秀で、この学校では勿体ないと思う。けっしてレベルが低い学校ではないし、むしろ全国に名の知れた有名校だ。
けれど、賢い人が集まる一流学校というよりは、勉強も相応にできる比較的生活がゆっくりした家庭の子が集まるって感じだった。
私の家はけっしてセレブではないけれど、両親が官僚の共働きで一人っ子ということで、多少ゆとりがあったのだと思う。一貫教育の学校に入ることができたら、受験勉強の必要はないと考えて入学させたのだと思う。……たぶん。
もう会えないんだと思うと、居ても立ってもいられなくなって、衝動に任せて彼を呼びだし、好きって告白した。
今にして思えば、本当に無謀で、怖いもの知らずだ。今の私なら、とてもできない。
選んだ場所は小学部の建物裏。
どこの学校にも一つはある、伝説みたいな言い伝えを信じて、そこにした。
私の学校では、金木犀の花が咲いて、香りが漂っている時に木の下で告白したら、上手くいくっていうものだ。金木犀の香りが味方してくれるって。
女の子が好きそうな話だと思う。私は信じなかった。だけど、いざ告白しよとしたら、しっかり頼ってしまった。
……くん。好きです。
告白したら、返事ではなく、沈黙が返された。
その沈黙にどう対応したらいいのかわからず、私も沈黙する。
しばらく互いに何も言わず無言で、その場に立ち尽くしていた。
俯いていた私だったけれど、彼が困ったような顔をして私を見下ろしていたことはよくわかった。
その沈黙はどれくらいの長さだったのだろう。
あの時はすごく長く感じたけれど、実際は一、二分だったのかもしれない。今でもよくわからない。
私はどうしたらいいのかわからず、ただ彼がなにか言ってくれるのを、じっと待っていた。
うぅん。『なにか』じゃなく、『僕も』とか、『つきあおう』とか……
小学生の私には、『つきあう』ってどんなことなのかよくわからなかったものの、でも『特別な関係』になるのだと思っていた。
その『特別な関係』も、年を追うごとに本当の意味を理解していくもので、小学生だった私は、意味もわからないまま、ただそう思うばかりだった。
他の女の子たちが言っているから、告白して上手くいった時は、『つきあう』って関係になるのだと、単純に思っていた。
よく考えたら、いきなり好きって言われても、どうしたらいいのだろうと思う。私も、いきなりよく知りもしない男の子に好きって告白されても、どう答えていいのか、きっとわからなかっただろう。
でも、あの時はわけもわからず、ただ必死だった。俯く私を包む金木犀の甘い香りだけが現実だった。
長かったと記憶している沈黙の時間。口を開いたのは、私だった。
耐えきれずに顔を上げ、あの、と声を発したのだ。彼は整った綺麗な顔を私に真っ直ぐ向けていた。
目が合った。そして私は彼が『困っている』という現実を肌で強く感じて悲しくなった。
「あの」
もう一度、口にする。すると彼も沈黙の呪縛が解けたのか、声を発した。
「ありがとう。気持ちはとても、嬉しい。だからお礼は言うけど、それ以上はなにをどうしたらいいのかよくわからない。受験があるから一緒に遊ぶとかできないし」
「…………」
私はまたしても俯いた。
「なにを望んでいるの?」
「…………」
彼の言葉をただ無言で聞いていた。
「ただ、僕が好きだと言いたかっただけ?」
その言葉に弾かれるように、必死で頷いた。頷くしかできなかった。
「そっか。ありがとう」
「……う、ん」
二度目の『ありがとう』も胸に痛かった。
「じゃあ、行くね」
「あ、えと、聞いてくれて、ありがとう」
「うん」
彼はうっすらと微笑むと、そのまま去っていった。
私は呆然と彼の背を見送った。
金木犀の香りが充満していて、甘い香りを改めて実感した時、彼の背が滲んで見えた。
初恋が実ることはないというけれど、本当にそうだと思った。
淡いどころか、痛い思い出となった。
言い伝えは単なる噂でしかなかった。私の場合は。
だけどあの時は子どもながらに必死で……そして、悔いはない。
今年も金木犀の甘い香りが漂い始めた。
彼は今頃、どうしているだろう?
あれから一度も会ってはいないけれど、私のこと、覚えているかな?
うぅん、きっと忘れていると思う。だって、小学生の時の話だもの。
でも、私は忘れない。忘れられない。
金木犀の甘い香りが、ずっと思い出となって私の中にあり続けるから。
風が吹くたびに甘く濃厚な香りが部屋に流れてくる。
オレンジ色のかわいい花。だけど香りの自己主張は強い。
この香りをかぐと、思いだすことがある。
それは初恋の人に告白したこと。
撃沈されて、涙したこと。
幼稚園から大学院まである一貫教育の学校に通っていた。
このままみんなで一緒に中等部へ進むのだと思っていたら、彼は別の学校に行くのだと聞き、驚いた。そんな選択肢があるのかと。今思えば、当たり前のことなのに。
彼は成績優秀で、この学校では勿体ないと思う。けっしてレベルが低い学校ではないし、むしろ全国に名の知れた有名校だ。
けれど、賢い人が集まる一流学校というよりは、勉強も相応にできる比較的生活がゆっくりした家庭の子が集まるって感じだった。
私の家はけっしてセレブではないけれど、両親が官僚の共働きで一人っ子ということで、多少ゆとりがあったのだと思う。一貫教育の学校に入ることができたら、受験勉強の必要はないと考えて入学させたのだと思う。……たぶん。
もう会えないんだと思うと、居ても立ってもいられなくなって、衝動に任せて彼を呼びだし、好きって告白した。
今にして思えば、本当に無謀で、怖いもの知らずだ。今の私なら、とてもできない。
選んだ場所は小学部の建物裏。
どこの学校にも一つはある、伝説みたいな言い伝えを信じて、そこにした。
私の学校では、金木犀の花が咲いて、香りが漂っている時に木の下で告白したら、上手くいくっていうものだ。金木犀の香りが味方してくれるって。
女の子が好きそうな話だと思う。私は信じなかった。だけど、いざ告白しよとしたら、しっかり頼ってしまった。
……くん。好きです。
告白したら、返事ではなく、沈黙が返された。
その沈黙にどう対応したらいいのかわからず、私も沈黙する。
しばらく互いに何も言わず無言で、その場に立ち尽くしていた。
俯いていた私だったけれど、彼が困ったような顔をして私を見下ろしていたことはよくわかった。
その沈黙はどれくらいの長さだったのだろう。
あの時はすごく長く感じたけれど、実際は一、二分だったのかもしれない。今でもよくわからない。
私はどうしたらいいのかわからず、ただ彼がなにか言ってくれるのを、じっと待っていた。
うぅん。『なにか』じゃなく、『僕も』とか、『つきあおう』とか……
小学生の私には、『つきあう』ってどんなことなのかよくわからなかったものの、でも『特別な関係』になるのだと思っていた。
その『特別な関係』も、年を追うごとに本当の意味を理解していくもので、小学生だった私は、意味もわからないまま、ただそう思うばかりだった。
他の女の子たちが言っているから、告白して上手くいった時は、『つきあう』って関係になるのだと、単純に思っていた。
よく考えたら、いきなり好きって言われても、どうしたらいいのだろうと思う。私も、いきなりよく知りもしない男の子に好きって告白されても、どう答えていいのか、きっとわからなかっただろう。
でも、あの時はわけもわからず、ただ必死だった。俯く私を包む金木犀の甘い香りだけが現実だった。
長かったと記憶している沈黙の時間。口を開いたのは、私だった。
耐えきれずに顔を上げ、あの、と声を発したのだ。彼は整った綺麗な顔を私に真っ直ぐ向けていた。
目が合った。そして私は彼が『困っている』という現実を肌で強く感じて悲しくなった。
「あの」
もう一度、口にする。すると彼も沈黙の呪縛が解けたのか、声を発した。
「ありがとう。気持ちはとても、嬉しい。だからお礼は言うけど、それ以上はなにをどうしたらいいのかよくわからない。受験があるから一緒に遊ぶとかできないし」
「…………」
私はまたしても俯いた。
「なにを望んでいるの?」
「…………」
彼の言葉をただ無言で聞いていた。
「ただ、僕が好きだと言いたかっただけ?」
その言葉に弾かれるように、必死で頷いた。頷くしかできなかった。
「そっか。ありがとう」
「……う、ん」
二度目の『ありがとう』も胸に痛かった。
「じゃあ、行くね」
「あ、えと、聞いてくれて、ありがとう」
「うん」
彼はうっすらと微笑むと、そのまま去っていった。
私は呆然と彼の背を見送った。
金木犀の香りが充満していて、甘い香りを改めて実感した時、彼の背が滲んで見えた。
初恋が実ることはないというけれど、本当にそうだと思った。
淡いどころか、痛い思い出となった。
言い伝えは単なる噂でしかなかった。私の場合は。
だけどあの時は子どもながらに必死で……そして、悔いはない。
今年も金木犀の甘い香りが漂い始めた。
彼は今頃、どうしているだろう?
あれから一度も会ってはいないけれど、私のこと、覚えているかな?
うぅん、きっと忘れていると思う。だって、小学生の時の話だもの。
でも、私は忘れない。忘れられない。
金木犀の甘い香りが、ずっと思い出となって私の中にあり続けるから。
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