初恋の再会は金木犀の香り
 考えても心当たりがない。

 碧の心に焦りが生じ、ますます増幅した。何度も緊張で唾を飲み込む。そんな時、電話が鳴った。内線だ。

「はい、社長室、久保田です」
『総務の大野です。矢島社長に尾崎《おざき》和美《かずみ》様とおっしゃる方がお見えですが、お約束ではないそうです』
「少々お待ちください」

 碧は電話を保留にし、修一に顔を向けた。

「社長、尾崎和美様とおっしゃる方が受付にいらしています。いかが致しましょうか?」
「和美さんが?」

 修一の口から出た言葉が碧に激しい衝撃を与えた。

「は、い。受付はそのように……」

 修一は困惑したように考え込んだが、すぐに顔を上げて通すよう促した。

「かしこまりました」

 立ち上がって受付に向かう。そこにはスタイルのいいスーツ姿の女性が立っていた。
 少々気の強そうな印象を与える、整った顔をした美人だ。碧はますます不安を覚えた。

「尾崎様、こちらでございます」

 頭を下げて社長室に案内すると、碧はそのまま退席し、お茶の用意をした。

「失礼致します」

 再び中に入る。二人は不穏なムードで、怖い顔をして話し込んでいる様子だった。そして尾崎が向けた目に碧は思わず足が竦んでしまった。

 射るような激しい怒りのまなざし。碧はなんとか歩み寄り、屈んでローテーブルにお茶を出した。すると修一が自分の隣に座るよう促した。

「ですが……」

「いいんだ。座って。和美さん、紹介します。慣れるまで秘書業務をしてくれることになった久保田さんです。彼女は小学校の時の同級生で、この会社で再会しました。僕は彼女との交際を望んでいますし、彼女も同意してくれています。ですから先日、正式にお断りを申し上げに伺ったのです。たまたま和美さんは外出されていて同席が叶いませんでしたが、ご両親は了解してくださいました」

「私は了解していません」
「望まれれば、直接その旨を伝えるとご両親には申し上げました」

 尾崎は碧に顔を向けた。

「久保田さんでしたっけ。私が彼の婚約者であることはご存じなんですか?」
「……婚約、者?」
「えぇ。私達は正式に結納を交わしている仲です。それを承知で交際を承諾なさったの?」

 息を飲む碧を尾崎は冷たく見つめている。その目に蔑みさえ感じられた。

「具体的な結婚式の日取りを決めようとしていた矢先にお義父様がお倒れになって、延期はやむなしと話していたところなんです。それを知った上で、修一さんと交際するとおっしゃっているのかと尋ねているのですよ。いかがなの?」

 碧は返事に窮した。そればかりではない。尾崎の鋭い怒りの目が碧から言葉を奪った。やがて尾崎はふんっと顔を背け、修一を見据えた。

「修一さん、こんなひどい仕打ち、許されると思っているんですか?」
「本当に申し訳なく思っています。ですが、好きな人ができてしまった以上、偽って結婚なんかできません。謝ります。この通り、心から謝罪致します。申し訳ありませんでした」

 頭を下げる修一に、碧も追随して下げた。

「久保田さんもそういうつもりってことね?」

 同意しようとしたが、唇が震えて言葉が出なかった。ただ下げ続けるしかできなかった。

「そちらの意向はわかりました。ですが、私としてはそのつもりでこの半年話を進めてきたんです。結婚という人生の大切な問題に、ただ親が勧めたからという理由だけで承諾したわけじゃありません。それに結納を交わしている以上、これは両家の、家同士の問題です。この縁談に一番乗り気だったのは矢島のお義父様です。お義父様が了解され、破談を謝罪下さるなら身を引きます」

 修一の顔が強張った。そのことを碧は見ずして感じた。わずかに触れる体から彼の動揺が伝わってきたのだ。

「そうでないなら私は納得しません」
「ですが父は」
「えぇ。意識が戻られて元気になられるまで、私はいつまでも待ちますから」
「…………」

 尾崎は立ち上がると、二人を睨んだ末に帰っていった。そんな姿を碧は呆然と見つめた。

「巻き込んですまない。話を合わせてくれてありがとう。おかげで助かったよ」

 修一に顔を向ける。修一の顔は引き攣っていた。

「あの、婚約者って」

「半年前、父に命じられて見合いをしたんだ。断る余地がなかった。僕は父のいいなりで、反論などとてもできない関係で……アメリカに留学したのも父から逃れるためだ。自由だったのは向こうでの四年間だけで、戻ってきたらいつもの、頭ごなしに命じられる日々だった」

「…………」

「何度も反抗しようとしたが、僕が抵抗すると、その怒りの矛先を母に向ける。だからそれすらできず、ただ言われるままに従ってきた」

 碧は驚いた。確かに修一の父は少々強引なところはあったが、それは会社というビジネスの場であるからで、碧は修一が言うような暴君的な印象など持っていなかったからだ。

 と、同時に、修一に婚約者がいたという事実に衝撃と、そして怒りを感じずにはいられなかった。

「でも、婚約者がいるって、そんな状態で交際なんて、説明もなく、ひどいわ。それに尾崎さんが怒るのは当然」

 途中まで言って言葉を飲み込んだ。修一が怒りのまなざしで碧を睨みつけたからだ。

「よくそんなことが言えるな。人のことを責められる立場じゃないだろう」

 修一の言葉が鋭い矢となって碧の胸を射た。

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