初恋の再会は金木犀の香り
碧はフードチェーン店『アロー・フード・サービス』に勤務している。
本社に在籍している正社員は五十人ばかりだが、フランチャイズの店舗は関東圏を中心に二百店を超える人気の外食店だ。
碧は総務部に所属し、総務係として勤務している。
面接やフランチャイズの申込みなどをまとめる窓口業務と、外来者の受付が主な仕事だった。
受付には電話が置かれている。電話が鳴ると碧が最初に対応するのだ。
入社三年目の碧が総務係では一番下だ。だから碧が受け持つことは当然とされた。とはいえフレンドリーな会社であるので、碧がなにかをしていると、他のスタッフがすぐに対応してくれる。
碧にとって非常に居心地のいい職場だった。ちなみに遥も総務部だが、彼女は庶務係に所属している。
席に戻ると周囲が少しばかりざわめいていることに気がついた。
「どうかしました?」
「それが……」
隣のスタッフが困惑したような顔を向け、声を低めて答えた。
「社長が倒れられたみたいなの」
「え……」
「それで息子さんが出向いてこられて、今、専務たちと話をしているのよ。でもまだ公にしちゃダメだから」
「あ、はい。わかりました、気をつけます」
ここ『アロー・フード・サービス』は現社長、矢島基也が、父である先代の個人食堂を拡大し、成功を収めた会社だった。
まだ五十半ばの働き盛りの矢島は少々強引ではあるが、社員を大事にする良い社長として慕われていた。その矢島が倒れたというのは衝撃だった。総務部の面々が動揺するのは当然だ。
「ところで」
「はい」
声をかけられ、碧は顔を上げた。
「社長の息子さん、久保田さんと同い年なんだって」
「……そうなんですか」
「もし社長交代になったら、二十五歳の若社長ってことよね。大丈夫なのかしら?」
碧は謂われなくドキンとした。
矢島社長の息子が自分と同い年。その言葉はさっき社員食堂で遥に話した初恋の相手を連想させた。彼の名も『矢島』だったのだ。
(初恋の話をしたすぐ後に、矢島社長の息子さんが私と同い年なんて情報……あ、うぅん、そんなことより、社長、大丈夫なのかしら? 倒れたって……)
碧の電話が鳴った。内線だ。
「はい、総務部、久保田です」
相手は上司である総務部長の飯田だった。社長室にコーヒーを四つと指示された。
「社長室に行ってきます」
「いってらっしゃい」
先輩に挨拶をし、碧は急いで給湯室に向かった。
会社自体は相応の規模だが、フランチャイズ形態なので親会社である本社は五十人ばかりしかいない。秘書室などはなく、社長室をはじめ、取締役の面倒を見るのは総務部の仕事だ。
碧はコーヒーを淹れて社長室に向かった。
「失礼します」
丁寧に礼をして中に入り、驚いた。
ソファに座っている男──四人の中で唯一の若い男が、矢島の息子だとわかったが、それ以上に彼の顔に覚えがあったからだ。
(矢島、君?)
碧はゴクンと息を飲み、動揺を見せないように気遣いながらローテーブルにコーヒーを置いていった。
「あ、修一さん、彼女は総務係の久保田さん。久保田さん、こちらが矢島社長の息子さんで矢島修一さんだ」
碧は胸の内で「やはり」と呟いた。
「久保田です。よろしくお願いします」
丁寧に頭を下げる。修一の反応が気になった。覚えてくれているだろうか、と。
「こんにちは。矢島です。これからこちらに通いますので、どうぞよろしくお願いします」
「はい、こちらこそ」
碧は微笑んだ。失望が胸に広がっていたが、十年以上会っていないのだからわからなくても仕方がない。それに六年生ではクラスメートではあったが、記憶に残るような特別な思い出があるわけでもなく、碧自身も目立つ存在ではなかった。ただ金木犀の木の下で『好き』と告白しただけだ。
碧はもう一度丁寧に頭を下げ、社長室をあとにした。
(驚いた! 矢島社長の息子さんが矢島君だったなんて! でも……覚えてもらえてなくてショックかも。六年生では同じクラスだったのに。あ、うぅん、これから矢島君がこの会社の社長として働くのなら、覚えていないほうがやりやすいかも。告白されてフッた女が部下なんて、矢島君もやり難いだろうし。いくら子どもの時のこととはいえ)
碧は給湯室にトレーを置くと、ふふっ、とわずかに笑った。
(嫌だな、私。小学生の頃の出来事でやり難いもやりやすいもないわよ。バカみたい)
席に戻ると周囲のスタッフが一斉に顔を向けてきた。
「どうだった?」
「どうって?」
「ジュニア」
碧の顔に微笑みが浮かぶ。
「素敵な方でしたよ、とても。モデルみたいにきれいな顔を為さっていて。社長に似ている感じがしなかったから、お母様似じゃないでしょうか?」
周囲から、へぇ~、という声が上がった。
「それで社長の具合について、なにか聞いた?」
「どんな状態かとか」
「あ……それは聞いていません。ただ、これからこちらに通いますので、どうぞよろしくお願いしますって言われました」
「じゃ、やっぱり悪いんだ……」
「戻られるまで取締役たちで乗り切ろうというんじゃないっていうなら、相当悪いってことだもんな。社長、まだ若いのに」
その日の夕方、総務部員は集められ、部長の飯田から正式な説明があった。
矢島の病名は脳梗塞で、命は取り留めたものの、まだ意識はなく、復帰は難しいということだった。明日、長男の修一が社長就任の挨拶をするそうだ。
碧は親が病気になった修一を気の毒に思うばかりだった。
本社に在籍している正社員は五十人ばかりだが、フランチャイズの店舗は関東圏を中心に二百店を超える人気の外食店だ。
碧は総務部に所属し、総務係として勤務している。
面接やフランチャイズの申込みなどをまとめる窓口業務と、外来者の受付が主な仕事だった。
受付には電話が置かれている。電話が鳴ると碧が最初に対応するのだ。
入社三年目の碧が総務係では一番下だ。だから碧が受け持つことは当然とされた。とはいえフレンドリーな会社であるので、碧がなにかをしていると、他のスタッフがすぐに対応してくれる。
碧にとって非常に居心地のいい職場だった。ちなみに遥も総務部だが、彼女は庶務係に所属している。
席に戻ると周囲が少しばかりざわめいていることに気がついた。
「どうかしました?」
「それが……」
隣のスタッフが困惑したような顔を向け、声を低めて答えた。
「社長が倒れられたみたいなの」
「え……」
「それで息子さんが出向いてこられて、今、専務たちと話をしているのよ。でもまだ公にしちゃダメだから」
「あ、はい。わかりました、気をつけます」
ここ『アロー・フード・サービス』は現社長、矢島基也が、父である先代の個人食堂を拡大し、成功を収めた会社だった。
まだ五十半ばの働き盛りの矢島は少々強引ではあるが、社員を大事にする良い社長として慕われていた。その矢島が倒れたというのは衝撃だった。総務部の面々が動揺するのは当然だ。
「ところで」
「はい」
声をかけられ、碧は顔を上げた。
「社長の息子さん、久保田さんと同い年なんだって」
「……そうなんですか」
「もし社長交代になったら、二十五歳の若社長ってことよね。大丈夫なのかしら?」
碧は謂われなくドキンとした。
矢島社長の息子が自分と同い年。その言葉はさっき社員食堂で遥に話した初恋の相手を連想させた。彼の名も『矢島』だったのだ。
(初恋の話をしたすぐ後に、矢島社長の息子さんが私と同い年なんて情報……あ、うぅん、そんなことより、社長、大丈夫なのかしら? 倒れたって……)
碧の電話が鳴った。内線だ。
「はい、総務部、久保田です」
相手は上司である総務部長の飯田だった。社長室にコーヒーを四つと指示された。
「社長室に行ってきます」
「いってらっしゃい」
先輩に挨拶をし、碧は急いで給湯室に向かった。
会社自体は相応の規模だが、フランチャイズ形態なので親会社である本社は五十人ばかりしかいない。秘書室などはなく、社長室をはじめ、取締役の面倒を見るのは総務部の仕事だ。
碧はコーヒーを淹れて社長室に向かった。
「失礼します」
丁寧に礼をして中に入り、驚いた。
ソファに座っている男──四人の中で唯一の若い男が、矢島の息子だとわかったが、それ以上に彼の顔に覚えがあったからだ。
(矢島、君?)
碧はゴクンと息を飲み、動揺を見せないように気遣いながらローテーブルにコーヒーを置いていった。
「あ、修一さん、彼女は総務係の久保田さん。久保田さん、こちらが矢島社長の息子さんで矢島修一さんだ」
碧は胸の内で「やはり」と呟いた。
「久保田です。よろしくお願いします」
丁寧に頭を下げる。修一の反応が気になった。覚えてくれているだろうか、と。
「こんにちは。矢島です。これからこちらに通いますので、どうぞよろしくお願いします」
「はい、こちらこそ」
碧は微笑んだ。失望が胸に広がっていたが、十年以上会っていないのだからわからなくても仕方がない。それに六年生ではクラスメートではあったが、記憶に残るような特別な思い出があるわけでもなく、碧自身も目立つ存在ではなかった。ただ金木犀の木の下で『好き』と告白しただけだ。
碧はもう一度丁寧に頭を下げ、社長室をあとにした。
(驚いた! 矢島社長の息子さんが矢島君だったなんて! でも……覚えてもらえてなくてショックかも。六年生では同じクラスだったのに。あ、うぅん、これから矢島君がこの会社の社長として働くのなら、覚えていないほうがやりやすいかも。告白されてフッた女が部下なんて、矢島君もやり難いだろうし。いくら子どもの時のこととはいえ)
碧は給湯室にトレーを置くと、ふふっ、とわずかに笑った。
(嫌だな、私。小学生の頃の出来事でやり難いもやりやすいもないわよ。バカみたい)
席に戻ると周囲のスタッフが一斉に顔を向けてきた。
「どうだった?」
「どうって?」
「ジュニア」
碧の顔に微笑みが浮かぶ。
「素敵な方でしたよ、とても。モデルみたいにきれいな顔を為さっていて。社長に似ている感じがしなかったから、お母様似じゃないでしょうか?」
周囲から、へぇ~、という声が上がった。
「それで社長の具合について、なにか聞いた?」
「どんな状態かとか」
「あ……それは聞いていません。ただ、これからこちらに通いますので、どうぞよろしくお願いしますって言われました」
「じゃ、やっぱり悪いんだ……」
「戻られるまで取締役たちで乗り切ろうというんじゃないっていうなら、相当悪いってことだもんな。社長、まだ若いのに」
その日の夕方、総務部員は集められ、部長の飯田から正式な説明があった。
矢島の病名は脳梗塞で、命は取り留めたものの、まだ意識はなく、復帰は難しいということだった。明日、長男の修一が社長就任の挨拶をするそうだ。
碧は親が病気になった修一を気の毒に思うばかりだった。