しきたり婚!~初めてを捧げて身を引くはずが、腹黒紳士な御曹司の溺愛計画に気づけば堕ちていたようです~
五十分後、教室に到着した衣都はタイムカードを押すと、今日の予定を今一度確認した。
今日は朝から音楽大学を受験する学生用の対策レッスンがあり、和歌子のアシスタントを務めることになっている。
音楽大学の入学選抜試験では、学科試験の他に実技試験がある。ピアノの演奏技術はもちろんのこと、他にも聴音や新曲視唱といった試験項目があり、専用の対策が必須なのだ。
(そろそろ皆、追い込みの季節ね)
数年前、自分も通った道を思い出し、懐かしさに襲われる。
音楽大学を受験する者にとって、冬は大切な季節だ。
年を明けると直ぐに苛烈な入学選抜試験に身を投じなければならない。
「はい、皆さん揃ったところでミーティングを始めます」
講師陣が全員出勤したところで、朝のミーティングが始まる。
ミーティングが終わると、下っ端の衣都はレッスン室のセッティングを始めた。
レッスンで使用する譜面を棚から取り出し、テーブルに置き、ピアノのカバーを外し、毛ばたきで鍵盤の埃を払っていく。
最後に、その日のピアノのコンディションを確かめる意味でも、心を落ち着ける意味でも一曲弾く。
この日、衣都が選んだのは、ベートーヴェンの三大ピアノソナタのひとつである『月光』だ。
しっとりした情感豊かなメロディーは、波立った心を鎮めてくれる。
ピアノがあってよかった。辛うじて正気を保っていられる。