財閥御曹司に仕掛けられたのは、甘すぎる罠でした。
 車は移動を続け、やがて立花家に入る。
 絶望を悟りながら、自分から車を降りた。

 幸せは続かない。
 永遠の幸せを願うから、人は不幸になる。

 分かっていたはずなのに、私は願ってしまったんだ。
 あの場所で、働き続けることを。
 悠賀様の隣に、パートナーとして立つことを。

 ため息をこぼしながら、歩みを進めた。
 この屋敷で、私が行く場所などひとつしかない。

 ――屋敷の一階の隅の、北側の埃っぽい部屋だ。

 *

 部屋に入り、懐かしい匂いに幾分心が落ち着いた。
 冬だと言うのに、じめじめとして(かび)臭さがある。
 私は、ここで育ったのだ。

 後ろからついてきていた晶子さんが静かに入り口の戸を閉めた。

「晶子さん、どうして戻ってきたんですか?」

 彼女は私がここを出ると同時に、仕事を辞して隠居していると聞いていた。
 私が桜堂ホテル・トウキョウで働けるように、身元保証人になってくれたのも彼女だ。
 クビになる前に退職してやるわ、と言ってくれたあの時は、とても心強かった。

 そんな彼女が、なぜここに?

 私の心の声を呼んだように、晶子さんは口を開いた。

「依恋様が桜堂悠賀様のパートナーをしていると、旦那様の耳に入ったようで――」

「え!?」

 驚きのあまり、大きすぎる声が出た。
 小さな部屋の中に、私の声が吸収される。

「申し訳ありません」

 晶子さんは丁寧に腰を折る。その顔は、悲痛な面持ちになっていた。

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