女の理容師
純は神奈川県のある町に住んでいる。ここは純の好きな海にも近く、東海道線で東京へも一時間かからず行ける至極便利な場所である。ある時、三省堂で本を買った帰り、ある事務手続きのため、ある駅で降りた。事務手続きが済んでさて、買ったばかりの本をどこか静かな喫茶店で読もうと思って街をぶらぶら歩いていると、小さな路地に出くわした。「××横丁」との大きな看板が門のように路地の入り口にかかっている。ここになら静かな喫茶店もあるだろうと、純は路地に入っていった。昔の面影を残している小さな店が道の左右に並んでいて、純はなんとも言えぬ心の安らぎを感じた。さらに行くと赤と青の螺旋模様の円筒がくるくる回っているのが目についた。小さな床屋である。長くなってきた髪が邪魔になって、そろそろ床屋へ行こうと思っていた時分だったので、ちょうどいいと思い、迷うことなく店の戸を開けた。チャリン、チャリンと鈴の音がなった。店員は、
「いらっしゃいませー」
と明るく大きな声を出して純の方を見た。純はびっくりした。三人の店員は皆、若くてきれいな女性である。一人の女性がレジの所に来た。
「お荷物をお預かりします」
彼女に促されて純は上着を脱いで、カバンと一緒に彼女に渡した。彼女は大切そうにそれを受けとるとレジの後ろの戸棚にそれを入れた。
「はじめてですか」
「はい」
「ではカルテをつくりますので・・・」
と言って、彼女は記載事項が書かれた記入用紙とボールペンを差し出した。記載事項には、氏名、住所、電話番号、メールアドレス、生年月日、職業、まである。何でこんなことまで書かなくてはならないんだ、と純は首を傾げつつも、記入して用紙を彼女に渡した。彼女は嬉しそうな顔で用紙を受けとると、引き出しの中にしまった。
「次回からこのカードをお持ち下さい」
そう言ってプラスチックのカードに純の名前を記入して純に手渡した。
「ではどうぞこちらへ」
そう言って彼女は調髪椅子の奥から二番目の椅子へ手招きした。純はその椅子に腰掛けた。
「じゃあ、お願いね」
彼女は床を掃いていた女性に言うと、店の奥の部屋へ入っていった。床を掃いていた女性は、
「はい」
と言って箒と塵取りを壁に立てかけて、急いで純の背後に立った。正面の鏡から彼女の顔が見える。性格温順そうな彼女の顔の口元には、かすかな微笑の兆しが見えた。きっと、さっきの女性がこの店のチーフなのだろう。
「よろしくお願いします」
と言って彼女はおじぎした。
「今日はどうなさいますか」
玉を転がすような優しい声。
「全体に二センチほど切って下さい」
「耳はどうなさいますか」
「耳は出さないで下さい」
「前はどのくらいにしますか」
「眉毛の二センチくらい上にしてください」
「はい。わかりました」
純の注文を聞きおわると彼女は整髪の準備をはじめた。首をタオルでまき、調髪用の白い絹のシーツを首に巻いた。首だけ出してあたかも、てるてる坊主である。
「お首、苦しくありませんか」
「はい」
純は目を瞑った。これからこの優しい女性と二人きりの時間が持てるのである。しかも彼女の指が自分の髪や顔を触れるスキンシップを感じながら。そう思うと純の心臓は高鳴った。
夢心地のうちに整髪は終わった。顔を剃る時、彼女のしなやかな指か純の口唇に触れた。純は気づかれないよう平静を装っていたが、それはたとえようもない極楽のスキンシップだった。
料金を払って純は理髪店を出た。帰りの途、純は浮き足立っていた。ああ、あんなフェアリーランドがあったとは。(純はその理容店をフェアリーランドと呼ぶ事にした)何て素晴らしい見つけものをしたことだろう。若い女のいる床屋はある。しかし、たいてい男の理髪師も必ずいる。だから、女の理髪師にあたるとは限らない。隣の客は女の理髪師がついて、自分は男の理髪師がついた時など、隣の幸運な客に対する嫉妬心でかえって気分が不快になる。しかも、かりに女の理髪師があたっても、垢抜けていない、暗い性格の純には親愛の情を持つ女などあまりいない。いくら女の調髪を受けても、心無くば寂しく、むなしい。むしろ自分だけこの世から疎外されているつらさを感じるだけである。
しかるにあの店の理髪師達はみな優しい。険がない。自分をあたたかく受け入れてくれる。しかも全員、女だから男に当たるという事もない。確実に最初から最期まで、優しい手つきの女の調髪を受けられるのである。
その晩、純はなかなか寝つけなかった。これからの散髪はすべてあの店にしようと思った。
しかし日を経るにつれ、この感激も次第に薄れていった。心地よい逢瀬とはいっても数ヶ月に一度きりの、一時間ちょっとの逢瀬なのである。しかも、あくまでも仕事の上。この絶対の条件の下に彼女らも自分を受け入れてくれるのである。
小心な純は今まで一度も恋人というものを持ったことがない。純粋な彼は世間を知らず、恋人のつくり方を知らないのである。もちろん、「ナンパ」だの「合コン」だのというものの存在は知っている。しかし彼は女に声をかけて、断られたときの絶望を思うとそれが恐ろしくて出来ないのである。それはおそらく一生の心の痛手になるであろう。その上、純は内気で話す話題もない。女を退屈させて、結局わかれる事になるのはほとんど明らかである。
だが純の女を求める気持ちは人一倍強かった。彼にとって女は神だった。彼にとって女とは対等な関係ではなく、ひたすらひれ伏し拝むべきものだった。
純は手をつないで街を歩いている男女、レストランで向き合って、お互い笑いながら対等に延々と話しつづけている男女を見る時、居ても立ってもいられない肉体のうずく羨望を感じずにはいられなかった。
「ああ。一度、自分も恋人というものをもってみたい」
純は叫びたくなるようなほどのそんな思いが起こってくるのだった。
純は髪が伸びてくるのが待ち遠しくなった。たとえ仕事の上とはいえ、たとえ一時間程度とはいえ、あのフェアリーランドへ行けば無言のうちに女の好意を感じる至福の時間を過ごせるのである。
「さあ。いこう」
純は髪が伸びてきて、そろそろ行こうと思ってきた頃、ある日、意を決して出かけるのである。そして夢心地の散髪を受けて帰ってくる。
あの優しい女だけの床屋を知ってから彼に心地よい夢想が起こるようになった。それは正常な人間にはおぞましく思われようが、先天性倒錯者の純には、その形態の夢想こそが至福なのである。
その夢想の形態とはこうである。
彼は調髪椅子に座っている。椅子が倒される。彼は目を瞑っている。蒸しタオルが顔からとられる。彼女は散髪のときと変わらぬ快活な調子である。
「では目をえぐります」
はい、と純は答える。剃刀が彼の閉じている瞼に垂直にサクッと入る。鮮血がピューと勢いよく噴き出す。ぎゃー、と純は悲鳴を上げる。
「痛くありませんでしたか」
彼女は淡々と聞く。
「・・・は、はい」
純はダラダラ顔の上を流れている血を感じつつガクガク声を震わせて答える。
「では耳をそぎます」
剃刀が耳の付け根に入って鮮血が吹き出ながら、耳が切り取られていく。ぎゃー、と純は悲鳴を上げる。両耳が切りとられると彼女はまた温かい口調で淡々と聞く。
「痛くありませんでしたか」
純はワナワナ声を震わせながら、かろうじて、
「・・・は、・・はい」
と答える。
「では顔を切り刻みます」
垂直に立った剃刀がサクッと彼の頬に入り鮮血がピューと吹き出る。ぎゃー、と純の悲鳴。剃刀はかろやかに彼の顔を隈なく切り刻んでいく。一通り終えると彼女は、淡々と聞く。
「痛くありませんでしたか」
「・・・は、・・・はい。だ・・・大丈夫です」
純はワナワナ声を震わせながら答える。
「では、これでおわりです。おつかれさまでしたー」
彼女は快活な口調で言う。
純は顔中、血に染まった中から息も絶え絶えに答える。
「・・・あ、あ、ありがとうございました」
そうして純は死んでいく。
それが彼の至福な夢想の形態なのである。それは彼女らが罪のない天使のような心の持ち主だからである。彼女らは心に険がないからである。あんな優しい女に酷く殺されたい。酷ければ酷いほどいい。純の夢想はどんどん酷いものになっていった。
夏が来た。夏こそ彼がそのためにのみ生きている季節であったが、同時にそれはつらい季節であった。手をつないで街を歩いているカップルがことさら羨ましく見える。それを見せつけられる事は彼にとって耐え難い事だった。
ある日、彼は車をとばして海に行った。海水浴場では美しいビキニ姿の女性ばかり。女性には皆、彼がいて手をつないでいる。彼は激しい嫉妬を感じた。男一人では海水浴場に入る事すら出来にくい。
「ああ。一度でいいから女性と手をつないで砂浜を歩いてみたい」
純は夕日が沈むまで渚で戯れている男女を見つめていた。
海風が長く伸びてきた純の頬を打った。純は思った。
「よし。あのフェアリーランドへ行こう。そして一度でいいから個人的に会ってくれないか、勇気を出して聞いてみよう。もしかすると彼女に断られてしまうかもしれない。気まずい雰囲気になってしまうかもしれない。あくまで彼女が僕に好意を持ってくれるのは仕事の上、という絶対の条件があるからだろう。断られたら僕はもうあの店に行けなくなってしまうかもしれない。言わなければずっと気持ちよく、通いつづけることが出来るものを。壊してしまうかもしれない。しかし、あの子の態度を思うとどうしてもそう無下に怒るようには思えない。よし。勇気を出して告白しよう」
翌日、純はあのフェアリーランドへ出かけた。出不精でめったに電車に乗らない純には女がこの上なく美しく見える。薄いブラウスやスカートの上からブラジャーやパンティーのラインが見えてこの上なく悩ましい。
「ああ。きれいた。何てきれいなんだろう」
純は心の中で切なく呟いた。
駅に着いた。フェアリーランドに近づくにつれて心臓が高鳴ってくる。戸を開けるといつものように、
「いらっしゃいませー」
との明るい声。幸い客はいない。店員は二人いた。チーフとあの子である。最近は指名制の床屋もある。が、ここではしていない。店としても指名性をしたい、が、ちょっとそこまで露骨なことは出来ない、という所だろう。が、チーフが気を利かせて客が望んでる相性の合う店員を割り当ててくれるのである。チーフは、
「じゃあお願いね」
と言って店の奥の部屋へ行った。
純の担当は、純がはじめにカットを受けた子である。純が店のドアを開けると、いつも彼女はニコッと笑って、「いらっしゃいませー」とペコリと頭を下げる。彼女が純に好意を持っていることは彼女の態度ではっきりわかる。純はペコリとおじぎして調髪椅子に座って目を閉じた。カットがおわって顔剃りになった。椅子が倒され、ちょっとあつい蒸しタオルが顔にのせられた。少し待ってから彼女は蒸しタオルをとって、純の顔を剃りだした。一心に顔を剃っている彼女に純は勇気を出して話しかけた。
「あ、あの。お姉さん・・・」
「はい。何でしょうか」
「あ、あの。冗談ですけど、言っていいでしょうか」
「ええ。かまいませんわ」
「あ、あの。その剃刀で顔を切り刻んで下さい」
彼女はプッと噴き出した。
「ごめんなさい。変な事、言っちゃって」
純はあわてて謝った。
「いいですわ。でも、どうしてそんな恐ろしい事を考えるんですか」
「お姉さんのような、きれいで、やさしい人に殺してもらえるんなら幸せなんです」
「いや。むしろ、そうされたいんです」
「そうまで私の事、思って下さるなんて幸せですわ。でも、そんな恐ろしい事、とてもじゃないですが出来ませんわ。私達、ただでさえ、剃刀を扱う時は、ほんのちょっとの傷をお客様につけることにでも過敏になってますもの」
「そうでしょうね。僕も本当に顔を切り刻まれる事に快感を感じられるかどうかは分かりません。あくまで空想の中では、痛みはありませんからね。でも、空想の中では切り刻まれる事が最高の快感なんです」
彼女は、「ふふふ」と笑った。
「はい。おわりました」
と言って、彼女は台を上げた。そしてブラシで背中と前をはたいた。
「シャンプーとカットと洗顔で四千円です」
「はい」
純は財布から紙幣を取り出した。
「あ、あの。もし御迷惑でなければ一度、海に行ってもらえませんか」
「ええ。かまいませんわ」
純は携帯の番号とメールアドレスをメモに書いて渡した。彼女はそれを受け取ってポケットに入れた。
その夜、純は寝つけなかった。はたしてメールの着信音がビビビッと鳴った。それにはこう書かれてあった。
「純さん。今日は有難うございました。海は何処で、いつがよろしいでしょうか。私は、月、金、が休みです」
純はいそいで返事のメールを出した。
「美奈子さん。メールを下さり、有難うございます。では、今週の金曜日、××ビーチに、正午で、というのはどうでしょうか」
送信するとすぐに返事のメールが返ってきた。
「はい。わかりました。必ず行きます」
金曜になった。
純は夢のような気持ちで××ビーチに行った。客は程よく少なく、デートにはもってこいの場所である。純は日焼け用オイル、ビニールシート、ビーチパラソル、ビーチサンダル一式を揃えて待っていた。来てくれるだろうか。来てくれないだろうか。
その時、海の家からピチピチの黄色いビキニで胸を揺らせながら一人の女性が手を振りながら笑顔で、
「純さーん」
と叫びながら走ってきた。
「美奈子さーん」
純は嬉しくなって満面の笑顔で手を振った。
「いらっしゃいませー」
と明るく大きな声を出して純の方を見た。純はびっくりした。三人の店員は皆、若くてきれいな女性である。一人の女性がレジの所に来た。
「お荷物をお預かりします」
彼女に促されて純は上着を脱いで、カバンと一緒に彼女に渡した。彼女は大切そうにそれを受けとるとレジの後ろの戸棚にそれを入れた。
「はじめてですか」
「はい」
「ではカルテをつくりますので・・・」
と言って、彼女は記載事項が書かれた記入用紙とボールペンを差し出した。記載事項には、氏名、住所、電話番号、メールアドレス、生年月日、職業、まである。何でこんなことまで書かなくてはならないんだ、と純は首を傾げつつも、記入して用紙を彼女に渡した。彼女は嬉しそうな顔で用紙を受けとると、引き出しの中にしまった。
「次回からこのカードをお持ち下さい」
そう言ってプラスチックのカードに純の名前を記入して純に手渡した。
「ではどうぞこちらへ」
そう言って彼女は調髪椅子の奥から二番目の椅子へ手招きした。純はその椅子に腰掛けた。
「じゃあ、お願いね」
彼女は床を掃いていた女性に言うと、店の奥の部屋へ入っていった。床を掃いていた女性は、
「はい」
と言って箒と塵取りを壁に立てかけて、急いで純の背後に立った。正面の鏡から彼女の顔が見える。性格温順そうな彼女の顔の口元には、かすかな微笑の兆しが見えた。きっと、さっきの女性がこの店のチーフなのだろう。
「よろしくお願いします」
と言って彼女はおじぎした。
「今日はどうなさいますか」
玉を転がすような優しい声。
「全体に二センチほど切って下さい」
「耳はどうなさいますか」
「耳は出さないで下さい」
「前はどのくらいにしますか」
「眉毛の二センチくらい上にしてください」
「はい。わかりました」
純の注文を聞きおわると彼女は整髪の準備をはじめた。首をタオルでまき、調髪用の白い絹のシーツを首に巻いた。首だけ出してあたかも、てるてる坊主である。
「お首、苦しくありませんか」
「はい」
純は目を瞑った。これからこの優しい女性と二人きりの時間が持てるのである。しかも彼女の指が自分の髪や顔を触れるスキンシップを感じながら。そう思うと純の心臓は高鳴った。
夢心地のうちに整髪は終わった。顔を剃る時、彼女のしなやかな指か純の口唇に触れた。純は気づかれないよう平静を装っていたが、それはたとえようもない極楽のスキンシップだった。
料金を払って純は理髪店を出た。帰りの途、純は浮き足立っていた。ああ、あんなフェアリーランドがあったとは。(純はその理容店をフェアリーランドと呼ぶ事にした)何て素晴らしい見つけものをしたことだろう。若い女のいる床屋はある。しかし、たいてい男の理髪師も必ずいる。だから、女の理髪師にあたるとは限らない。隣の客は女の理髪師がついて、自分は男の理髪師がついた時など、隣の幸運な客に対する嫉妬心でかえって気分が不快になる。しかも、かりに女の理髪師があたっても、垢抜けていない、暗い性格の純には親愛の情を持つ女などあまりいない。いくら女の調髪を受けても、心無くば寂しく、むなしい。むしろ自分だけこの世から疎外されているつらさを感じるだけである。
しかるにあの店の理髪師達はみな優しい。険がない。自分をあたたかく受け入れてくれる。しかも全員、女だから男に当たるという事もない。確実に最初から最期まで、優しい手つきの女の調髪を受けられるのである。
その晩、純はなかなか寝つけなかった。これからの散髪はすべてあの店にしようと思った。
しかし日を経るにつれ、この感激も次第に薄れていった。心地よい逢瀬とはいっても数ヶ月に一度きりの、一時間ちょっとの逢瀬なのである。しかも、あくまでも仕事の上。この絶対の条件の下に彼女らも自分を受け入れてくれるのである。
小心な純は今まで一度も恋人というものを持ったことがない。純粋な彼は世間を知らず、恋人のつくり方を知らないのである。もちろん、「ナンパ」だの「合コン」だのというものの存在は知っている。しかし彼は女に声をかけて、断られたときの絶望を思うとそれが恐ろしくて出来ないのである。それはおそらく一生の心の痛手になるであろう。その上、純は内気で話す話題もない。女を退屈させて、結局わかれる事になるのはほとんど明らかである。
だが純の女を求める気持ちは人一倍強かった。彼にとって女は神だった。彼にとって女とは対等な関係ではなく、ひたすらひれ伏し拝むべきものだった。
純は手をつないで街を歩いている男女、レストランで向き合って、お互い笑いながら対等に延々と話しつづけている男女を見る時、居ても立ってもいられない肉体のうずく羨望を感じずにはいられなかった。
「ああ。一度、自分も恋人というものをもってみたい」
純は叫びたくなるようなほどのそんな思いが起こってくるのだった。
純は髪が伸びてくるのが待ち遠しくなった。たとえ仕事の上とはいえ、たとえ一時間程度とはいえ、あのフェアリーランドへ行けば無言のうちに女の好意を感じる至福の時間を過ごせるのである。
「さあ。いこう」
純は髪が伸びてきて、そろそろ行こうと思ってきた頃、ある日、意を決して出かけるのである。そして夢心地の散髪を受けて帰ってくる。
あの優しい女だけの床屋を知ってから彼に心地よい夢想が起こるようになった。それは正常な人間にはおぞましく思われようが、先天性倒錯者の純には、その形態の夢想こそが至福なのである。
その夢想の形態とはこうである。
彼は調髪椅子に座っている。椅子が倒される。彼は目を瞑っている。蒸しタオルが顔からとられる。彼女は散髪のときと変わらぬ快活な調子である。
「では目をえぐります」
はい、と純は答える。剃刀が彼の閉じている瞼に垂直にサクッと入る。鮮血がピューと勢いよく噴き出す。ぎゃー、と純は悲鳴を上げる。
「痛くありませんでしたか」
彼女は淡々と聞く。
「・・・は、はい」
純はダラダラ顔の上を流れている血を感じつつガクガク声を震わせて答える。
「では耳をそぎます」
剃刀が耳の付け根に入って鮮血が吹き出ながら、耳が切り取られていく。ぎゃー、と純は悲鳴を上げる。両耳が切りとられると彼女はまた温かい口調で淡々と聞く。
「痛くありませんでしたか」
純はワナワナ声を震わせながら、かろうじて、
「・・・は、・・はい」
と答える。
「では顔を切り刻みます」
垂直に立った剃刀がサクッと彼の頬に入り鮮血がピューと吹き出る。ぎゃー、と純の悲鳴。剃刀はかろやかに彼の顔を隈なく切り刻んでいく。一通り終えると彼女は、淡々と聞く。
「痛くありませんでしたか」
「・・・は、・・・はい。だ・・・大丈夫です」
純はワナワナ声を震わせながら答える。
「では、これでおわりです。おつかれさまでしたー」
彼女は快活な口調で言う。
純は顔中、血に染まった中から息も絶え絶えに答える。
「・・・あ、あ、ありがとうございました」
そうして純は死んでいく。
それが彼の至福な夢想の形態なのである。それは彼女らが罪のない天使のような心の持ち主だからである。彼女らは心に険がないからである。あんな優しい女に酷く殺されたい。酷ければ酷いほどいい。純の夢想はどんどん酷いものになっていった。
夏が来た。夏こそ彼がそのためにのみ生きている季節であったが、同時にそれはつらい季節であった。手をつないで街を歩いているカップルがことさら羨ましく見える。それを見せつけられる事は彼にとって耐え難い事だった。
ある日、彼は車をとばして海に行った。海水浴場では美しいビキニ姿の女性ばかり。女性には皆、彼がいて手をつないでいる。彼は激しい嫉妬を感じた。男一人では海水浴場に入る事すら出来にくい。
「ああ。一度でいいから女性と手をつないで砂浜を歩いてみたい」
純は夕日が沈むまで渚で戯れている男女を見つめていた。
海風が長く伸びてきた純の頬を打った。純は思った。
「よし。あのフェアリーランドへ行こう。そして一度でいいから個人的に会ってくれないか、勇気を出して聞いてみよう。もしかすると彼女に断られてしまうかもしれない。気まずい雰囲気になってしまうかもしれない。あくまで彼女が僕に好意を持ってくれるのは仕事の上、という絶対の条件があるからだろう。断られたら僕はもうあの店に行けなくなってしまうかもしれない。言わなければずっと気持ちよく、通いつづけることが出来るものを。壊してしまうかもしれない。しかし、あの子の態度を思うとどうしてもそう無下に怒るようには思えない。よし。勇気を出して告白しよう」
翌日、純はあのフェアリーランドへ出かけた。出不精でめったに電車に乗らない純には女がこの上なく美しく見える。薄いブラウスやスカートの上からブラジャーやパンティーのラインが見えてこの上なく悩ましい。
「ああ。きれいた。何てきれいなんだろう」
純は心の中で切なく呟いた。
駅に着いた。フェアリーランドに近づくにつれて心臓が高鳴ってくる。戸を開けるといつものように、
「いらっしゃいませー」
との明るい声。幸い客はいない。店員は二人いた。チーフとあの子である。最近は指名制の床屋もある。が、ここではしていない。店としても指名性をしたい、が、ちょっとそこまで露骨なことは出来ない、という所だろう。が、チーフが気を利かせて客が望んでる相性の合う店員を割り当ててくれるのである。チーフは、
「じゃあお願いね」
と言って店の奥の部屋へ行った。
純の担当は、純がはじめにカットを受けた子である。純が店のドアを開けると、いつも彼女はニコッと笑って、「いらっしゃいませー」とペコリと頭を下げる。彼女が純に好意を持っていることは彼女の態度ではっきりわかる。純はペコリとおじぎして調髪椅子に座って目を閉じた。カットがおわって顔剃りになった。椅子が倒され、ちょっとあつい蒸しタオルが顔にのせられた。少し待ってから彼女は蒸しタオルをとって、純の顔を剃りだした。一心に顔を剃っている彼女に純は勇気を出して話しかけた。
「あ、あの。お姉さん・・・」
「はい。何でしょうか」
「あ、あの。冗談ですけど、言っていいでしょうか」
「ええ。かまいませんわ」
「あ、あの。その剃刀で顔を切り刻んで下さい」
彼女はプッと噴き出した。
「ごめんなさい。変な事、言っちゃって」
純はあわてて謝った。
「いいですわ。でも、どうしてそんな恐ろしい事を考えるんですか」
「お姉さんのような、きれいで、やさしい人に殺してもらえるんなら幸せなんです」
「いや。むしろ、そうされたいんです」
「そうまで私の事、思って下さるなんて幸せですわ。でも、そんな恐ろしい事、とてもじゃないですが出来ませんわ。私達、ただでさえ、剃刀を扱う時は、ほんのちょっとの傷をお客様につけることにでも過敏になってますもの」
「そうでしょうね。僕も本当に顔を切り刻まれる事に快感を感じられるかどうかは分かりません。あくまで空想の中では、痛みはありませんからね。でも、空想の中では切り刻まれる事が最高の快感なんです」
彼女は、「ふふふ」と笑った。
「はい。おわりました」
と言って、彼女は台を上げた。そしてブラシで背中と前をはたいた。
「シャンプーとカットと洗顔で四千円です」
「はい」
純は財布から紙幣を取り出した。
「あ、あの。もし御迷惑でなければ一度、海に行ってもらえませんか」
「ええ。かまいませんわ」
純は携帯の番号とメールアドレスをメモに書いて渡した。彼女はそれを受け取ってポケットに入れた。
その夜、純は寝つけなかった。はたしてメールの着信音がビビビッと鳴った。それにはこう書かれてあった。
「純さん。今日は有難うございました。海は何処で、いつがよろしいでしょうか。私は、月、金、が休みです」
純はいそいで返事のメールを出した。
「美奈子さん。メールを下さり、有難うございます。では、今週の金曜日、××ビーチに、正午で、というのはどうでしょうか」
送信するとすぐに返事のメールが返ってきた。
「はい。わかりました。必ず行きます」
金曜になった。
純は夢のような気持ちで××ビーチに行った。客は程よく少なく、デートにはもってこいの場所である。純は日焼け用オイル、ビニールシート、ビーチパラソル、ビーチサンダル一式を揃えて待っていた。来てくれるだろうか。来てくれないだろうか。
その時、海の家からピチピチの黄色いビキニで胸を揺らせながら一人の女性が手を振りながら笑顔で、
「純さーん」
と叫びながら走ってきた。
「美奈子さーん」
純は嬉しくなって満面の笑顔で手を振った。