日給10万の結婚
辺りは静まり、日付が変わった頃、玄関の扉が開く音がした。
私はと言えば、またそわそわしてばかりだった。お風呂にでも入って落ち着こうかと思ったけれど、それも出来なかった。玲から連絡があったら、と考えると、離れられなかったのだ。テレビをつけても内容が頭に入ってこないし、本を読む余裕もないし、こんなに時間の経過を長く感じたのは初めてかもしれなかった。
玲が帰ってきたのだと分かった瞬間、ソファから飛び上がった。出迎えた方がいいのか、なんてくだらないことに悩み狼狽えている間に、リビングの扉が開かれた。私はおろおろしていた中途半端な姿勢のままで立っていた。
玲は、普段綺麗にセットされている髪もやや乱れ、額にうっすら汗をかいていた。切羽詰まったような顔で、私をじっと見下ろしていた。
課題は山積みなのに、約一週間ぶりに見るその顔に、ついホッとしてしまった。この五か月、毎日一緒だったから、とても久しぶりに感じてしまったのだ。
「お、おかえり……」
まずはそんな無難な挨拶をしてしまった。玲は持っていた荷物を適当に床に置いた。そしてネクタイを緩めながら、気まずそうに視線を逸らす。
「ただいま」
「無理して帰ってきてもらってごめん」
「お前は何も謝ることはない、全部俺が悪い」
珍しく気弱な発言に、言葉を詰まらせた。小さく首を振る。
「玲のせいじゃない」
「元々このめちゃくちゃな仕事を持ち掛けたのは俺だ」
「でも私はそれで助けられたんだから」
そう答えると、彼の表情はなお歪んだ。なんとなくきまずく感じ、私は俯いて手をもじもじと重ねる。改めて私は彼に告白みたいな事をしてしまったんだ、と思い出す。
何から聞けばいいんだろう。なんでも聞きたい、これからのこと。それが悲しい結末でも。
「……あの、玲」
「俺は舞香に隠してたことがある」
突然そう言い放った。顔を持ち上げてみると、玲の苦し気な顔がそこにあった。
「隠してたこと?」
「言わなきゃ、と思ってたんだけど。言うタイミングを逃したまま、あんな……手だけ出す形に」
あのキスの事を言っているのだろうか。確かに、手を出されたと言えばそうなのだが。
「それは……私も言うつもりなかったのにあんなこと言っちゃったから……大丈夫、気にしてないよ。元々そんなふうに見られてないって分かってたし。それよりも楓さんたちのことを」
「そんなふうに見られてない? 何言ってんだお前」
玲が目を丸くして言った。こちらも同じように目を見開く。
「え、勢い余って、ってやつでしょ」
「はあ? 勢いだと思ってんのか」
「じゃなかったら何で直後に謝って避けるようにいなくなったのよ」
「いや、出張は逃げるために無理やり行ったわけじゃない! 本当に急なことだったんだ。まあ、頭を冷やすのに丁度いい、って思ったのは事実だけど……今思えば、舞香を一人にするためにわざと俺を飛ばしたのかもしれない」
私は目を丸くした。そうか、玲を出張に行かせることぐらい、あの人たちなら出来る。そこも仕組まれていたのか。
玲は気まずそうに視線を逸らしつつ、やや低い声で言う。
「……あの謝罪は、勢いでやっちゃってごめん、ってことじゃない。俺は舞香にちゃんと全部言えてないのに、あんなことをしてしまってごめん、ってことだ」
「……隠してたことって、なに?」
玲はひと息に私に言った。
「お前は俺に借金なんてないんだよ」