日給10万の結婚
「飲める?」

「あ、まあ人並みに」

「よし」

 そう言った彼は私の隣りに腰かけた。ソファがぐんと沈む。そしてすぐに封を開け、爽やかな音とアルコールの香りが鼻をつついた。彼は私に促す。

「舞香も飲め」

「あ、はあ」

 言われた通り開けてみる。実際のところ、あまりお酒は好んでは飲んでいない。職場の歓迎会だとか、そういう時だけしか飲んだことがない。だが貰ったビールは、今まで飲んだどれより美味しく感じた。やはりいいビールなのだろうか。

 ていうか、三千万肩代わりしてもらった相手と酒飲んで、私は何をやってるんだろうか?

 不思議に思いながらも飲み続けていると、玲が切り出した。

「婚姻届けは出してきた、これでもう戸籍上は夫婦な。二階堂舞香になったからよろしく」

「あ、はい」

「今日はまあ家に慣れるためにもゆっくりすればいい、時間も遅いしな。だが、明日から働いてもらう」

 働く、の言葉を聞きごくりと唾をのんだ。手に缶ビールを包み、玲の横顔をじっと見る。やけに整った顔をした彼は、濡れた髪のせいもあって酷く色っぽく見えた。

「私は何をすればいいの?」

「まずは人前に出すレベルになってくれ」

 なんという失礼な言い草。

 信じられない気持ちで見ていると、玲がこちらを見た。そしてずいっと顔を近づけてくる。あまりの距離についのけぞってしまった。

「お前スキンケアしてる?」

「え? ああ、まあ薬局で買う安い化粧水ぐらい」

「トリートメントは?」

「いや普通の安いコンディショナーだけ……」

「圭吾に揃えさせるから、明日からちゃんとしたやり方で手入れをしろ」

 女として最低限の身だしなみはしてきたつもりだが、彼から見るとまるでなってないらしかった。ちょっとショック。そりゃ夜勤とかある仕事だし、肌が荒れてるなって思う時期もあるけども。

「あと服とかも揃える。全部買い換えろ」

「そんなにひどい?」

「素材は悪くないんだから」

 唯一のフォローだった。まあ、玲はお世辞を言うタイプには見えないので、ここは素直に受け取っておこう。

「あとそれから勉強だ」

「勉強?」

「まずはマナー。食事は勿論、歩き方や立ち姿、人と会話する時の話し方。それが出来たら次は知識だ。馬鹿だとは思ってないし無知だとも思ってないが、仕事関係の人間と話すときに受け答えできなければ困る。世界情勢に株価の変動、二階堂が手掛けてる仕事内容も合わせて覚えてもらう。勿論会社の歴史も。あとは人の名前などもな。仕事関係は付き合いが多い」

 早口で告げられ、くらくらした。持っていた缶ビールを落下させてしまいそうだ。

 なるほど、これは確かにものすごい仕事かもしれない。私は特に一般家庭よりむしろ貧乏で、ナイフとフォークすらほとんど使ったことがない。そのためまずはテーブルマナーからとは。

 覚えるべきことは山ほどありそうだ。

「おい白目剥くな」

「うそ剥いてた?」

「言っておくがこれはスタートだぞ。それを短期間で全部クリアしてもらう、それから俺の結婚相手として親たちに紹介するんだ。本当の戦いはそっからだぞ、色々攻撃してくるだろうから」

「それを全部身に着けて、これは二階堂の嫁として相応しい、って思わせろってことよね?」
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