日給10万の結婚
 ぐっと前を見る。そして口角を上げて、和人に言った。

「自分がそんな縋りつかれるぐらいいい男だと思ってるの? 二股掛けるような男、喜んで相手の女に差し上げます。むしろもっと早く言ってほしかったぐらい。そしたら無駄な時間を過ごさないで済んだのに」

 私の発言を聞いて、和人がゆっくり眉を顰めた。信じられない、私は昨日までこの人のことが好きだったのに。

 別れはショックじゃないはずがない。泣いてしまいたい、でも私は彼が言うように気が強い自覚がある。泣き顔なんて、絶対に見せたくない。なお一層握りこぶしに力を入れた。

 しばしそのまま沈黙が流れる。静かな喫茶店の中は、穏やかなジャズが流れていた。誰かがカップをソーサーに置く音が響く。そして沈黙を破るように、和人が動いた。

「ここは俺が払っとくわ。お前んち貧乏だしな」

 ぐっと言葉を飲み込む。コーヒー一杯ぐらいでなんだその言い方は。私の家は貧乏だ、給与はそれなりにあるけど、来年大学に行く弟の勇太の学費のために貯金で必死だったのだ。だが貧乏の何が悪い。勇太は一度も私に貧乏を愚痴ったことはなかったし、いつも笑顔で頑張ってる。二十六の男が、十八の弟より嫌な人間だ。

 意地になってコーヒー代を払ってもよかったけど、こんなめちゃくちゃな別れ話のためにお金を払うのはもったいなかったので、ニコリと笑って見せた。

「どうもありがとうございます。ここのコーヒー美味しいんですよね」

 和人はなお苛立った顔をしてみせたが、そのまま伝票を持って行ってしまった。一人残された私は、背筋を伸ばして座っていた。

 ああ、なんて終わり方。半年一緒にいたのに、こんな終末を迎えるなんてあんまりだ。

 どうしてせめて二股掛けてたこと黙っておいてくれなかったの。静かに価値観が合わないと、考えが合わないと言ってくれれば、ここまで辛い気持ちになることはなかったのに。

「くそ」

 泣きそうになるのを必死に堪え、ようやくコーヒーに手を伸ばした。苦くて香りのよいそれは、私が大好きな味なのに、もしかしたら今後コーヒーを飲めなくなるかもしれないとすら思った。



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