夫婦ごっこ
 こういうつらいことがあったときほど社会人のありがたみを感じることはない。仕事に忙しくしていれば、胸の痛みも忘れていられるのだから。

 奈央は就職を機に家を出て一人暮らしを始めたから、普通に暮らしていれば由紀たちと顔を合わせることはほとんどない。ただただ仕事に明け暮れていれば、十分に幸せな日々を過ごせた。婚約報告を受けたあと、しばらくは憂鬱な気持ちになっていたものだが、普段通りに暮らして半年も経てば、奈央は完全にいつもの日常を取り戻していた。

 趣味を楽しむ余力もまた戻ってきて、奈央は週末の時間を趣味に割くようになった。大学時代に友人に連れられて行ったのがきっかけだったが、今では一人で参加するほどに好きなその趣味は、与えられた謎をその場で解いていくリアル謎解きイベントだ。元々パズルの類が好きだった奈央は謎解きにハマるのも早かった。最初のイベントでその虜となり、今では近辺で開催されているイベントに手あたり次第参加しているほどだ。

 奈央の友人たちも誘えば楽しそうに参加してくれるが、奈央ほどの熱意はないため、一人で参加していることのほうが多い。次のイベントも一人で参加しようと計画を練っていた奈央だが、どこから聞きつけたのか、由紀がそのイベントに一緒に参加したいと言いだして、奈央は次のイベントに由紀と修平と三人で参加する羽目になってしまった。

 せっかくの楽しい時間を奪われるようで奈央は面白くなかったが、昔から由紀の頼みを断るのは苦手で、自分がつらい思いをするとわかっていても最終的に承諾してしまうのだ。幸い、次に参加しようとしていたイベントは最大五人のグループが作られるから、一人だけ気まずい思いをするようなことにはならないだろう。誰かあと二人知り合いを呼んで五人で参加してもよかったが、下手に奈央の想いを勘繰られると厄介だから、奈央は敢えて三人で参加し、見知らぬ誰かと組む道を選択していた。
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