幸せな音
不気味だ。信愛は本能的な忌避感に思わずベンチから立ち上がって身を退いて距離を取る。どうやらヤバい人のようだ。信愛はこのまま逃げ帰ろうと方向転換する。

「待って……!」

 逃げるのが一歩遅れた。桜守に服の裾を掴まれてしまう。

「いや! 放して……!」

 信愛は恐怖のまま桜守の手を振り払う。彼女はその衝撃で地べたに這いつくばる。

「うっ、えほっ、げほっ、げほっ……おぇ、っっ……」

 桜守は辛そうに咳き込むと嘔吐を寸前で飲み込むように口に手を当てる。

「……え、あの、ごめんなさい、大丈夫……?」

 恐る恐るのぞき込むと桜守は顔を蒼白にして額に脂汗を浮かべ、涙まで流している。一瞬信愛の気を退こうと演技でもしているのかと疑ったが、とてもそうには見えない。

「あともう少しなのっ、お願い、ここにいてっ……!」

 わからない。この人はなんでこんなに一生懸命なのか。

「………………わかった、わかったから」

信愛は観念して桜守の傍に寄る。桜守の豹変ぶりにはついていけないし、わからない事ばかりだけれど、何かを訴えようとする彼女の必死な眼差しに胸を打たれた。
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