恋愛経験ゼロの御曹司様が札束で口説こうとしてきた
 その日から、昴は数日置きに喫茶店を訪れるようになった。窓際の席で紅茶を一杯だけ飲んで帰っていく、そんな日がゆるやかに続いたのだ。

 彼が文乃との距離を縮めるために来店しているのは明らかだったが──交際を迫るような言葉は終ぞ出てこず、しばらくは他愛のない話をするだけだった。

 近頃急に冷え込み始めた気温についてだとか、店の入口でよく丸まっている野良猫のこととか、散歩中に店を覗き込んできた保育園児たちのお喋りに付き合ったりもした。

 互いに深く踏み込まない距離感は、文乃にとって居心地が良かった。

 しかし、いつも彼がスーツを着ているから、もしや仕事の合間に来ているのかといよいよ文乃が気になって尋ねてみれば、昴はハッと目を丸くして──どこか恥ずかしそうに視線を逸らした。

「いえ、まぁ、今日は仕事の昼休憩に来ましたが……勝負服とでも言いましょうか、高良さんに会いに行くには大きな商談以上の気合いを入れなくてはならないので」
「えっ。お、お休みの日もスーツ着てたってことですか」
「はい。ですが今のところ紅茶を飲むことしか出来ていないので、どうにか(ほだ)されてくれないかと思っています」

 正直すぎる昴の返答に、文乃は思わず笑ってしまった。

 まさか旧財閥の御曹司が、ただの一般人である自分に会いに行くためだけにスーツを着ていただなんて、誰が考えるだろうかと。

 盆で口元を隠していても笑いは誤魔化しきれなかったが、昴は気分を害すどころか、眩しいものでも見るかのように文乃を見詰めていた。

「お金持ってきたりスーツ着てきたり、羽衣石さん面白いですね」
「ああ……お金は知人に言われたんです。お前は真面目すぎるから大金をチラつかせたほうが興味を引けると」

 チラつかせるどころか堂々と見せ付けてきていたが。多分そこでも昴と知人との間に齟齬が生まれているような気がして、文乃は「すみません」と断りつつ肩を震わせた。

「ふふ、と、とにかくお休みの日ぐらい、ラクな格好で来てください。ここは商談の場ではないですし……あ、羽衣石さんの私服も気になりますし!」
「!」

 学校や仕事のことを一旦忘れて、ゆったりとした時間を過ごしてほしい──この店の方針はそんなところだ。文乃が想像もつかないような事業に携わる多忙な昴にも、ここにいる間は力を抜いてもらいたい。

 そう考えた上での発言だったのだが……。

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