恋愛経験ゼロの御曹司様が札束で口説こうとしてきた
 苗字ではなく名前を呼ばれたと気付くのに、数秒掛かった。

 わけもなく昴と視線を合わせたまま、文乃は「はい」と小さく返事をする。

 真っ直ぐに文乃を見つめていた昴は、おもむろにシートベルトを外してこちらに身を乗り出した。

 反射的に仰け反ってしまったものの、狭い車内に逃げ場などあるはずもなく。文乃は呆気なく追い詰められた。

 化粧の殆ど取れた顔を見られるのが嫌で俯けば──それを咎めるかのように顎をそっと掬われる。

「文乃さん」
「はい」
「……彼に、想いは残していますか」

 文乃は首を横に振った。すぐに得られた答えに、昴の目許が幾分か和らぐ。

「私に名前を呼ばれるのは、嫌ですか」
「……いいえ。その……くすぐったい、感じです」
「ではこれからも文乃さんと呼ばせてください。たくさん呼びます。彼との記憶に上書きして、思い出せなくなるぐらいに」

 そう囁いた彼の瞳には、明らかな嫉妬が宿っていた。昼間の彼が決して見せることのなかった、獰猛な光が。

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