恋愛経験ゼロの御曹司様が札束で口説こうとしてきた
 この小さくて可愛らしい人は誰だろう。

 丸くてぱっちりとした瞳に、ふっくらとした柔らかそうな頬。ポニーテールにした黒髪はこざっぱりとした印象を与える一方、ふわふわの毛先が汗ばんだうなじで揺れる様はどうにも煽──。

『は…………』
『え?』

 心優しい女性に対して昼間から何を考えているのかと、二日酔いで頭がおかしくなったのだろうかと、昴はそれまで以上に青褪めてしまった。

 その変化にすぐさま気付いた文乃が、慌てて彼を喫茶店に入れ、バックヤードで休ませたのも無理はない。

 結論から言えば、二日酔いと夏の猛暑日が重なったことで軽度の熱中症を引き起こしていたため、その日は止む無く早退したのだが。

『高良文乃さん……』

 ちらりと見えた名札と、店主と思しき男が呼んだ「文乃ちゃん」という名前。

 高良文乃。……高良文乃。

 体調が回復した後、車を運転しているときや仕事に追われている最中にも、昴の頭の中から文乃の控えめな笑顔は消えてくれなかった。

 寧ろ、何でもないと否定すればするほど脳内に強く焼き付いて。

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