恋愛経験ゼロの御曹司様が札束で口説こうとしてきた
 たかが恋人、されど恋人。

 何度も何度も同じような形で裏切られた文乃の心は、彼女が自覚している以上に疲弊していたらしい。加えて会社で蓄積してしまった多大なストレスにも体を蝕まれていたため、文乃は暫しの療養を求められた。

 そうして父の友人が営むこぢんまりとしたレトロな喫茶店で手伝いをさせてもらいながら、文乃は以前とは比べ物にならないほど穏やかな日々を送るようになったのである。

 そう、そのはずだった。



「……羽衣石(ういし)(すばる)さん?」

 名刺に印刷された文字を読み上げると、容姿端麗な不審者──もとい昴は居住まいを正しつつ浅く頷いた。

「あなたの昴です」
「私のではないですね……」

 文乃が世話になっている喫茶店から少し離れた公園の四阿(あずまや)。夕暮れ時ということもあって子供の影はないが、街路の人通りは少なくない。

 騒がしくもなく、かと言って静かすぎることもない場所で、文乃は昴による存外丁寧な自己紹介を受けていた。

「あの、私の勘違いでなければ羽衣石って……旧財閥で有名な、あの羽衣石?」
「はい」
「銀行とか商社とか、海運業もやってる、あの……?」
「はい」

 事も無げにはいはい頷く昴を見て、この名刺受け取らなかったことに出来ないかなと、文乃は遠い目をしてしまう。

 羽衣石家と言えば義務教育の教材にもその名が載るほど有名な家門だ。呉服屋から始まり金融業へ、貿易の主戦場が陸路から航路に移れば海運業にも手を広げるなど、貪欲かつ賢く生き残ってきた根っからの商人と言えよう。

 財閥が解体された後もその血筋と手腕は健在で、羽衣石の名を戴く企業は現在も数多く存在し、人々の暮らしに深く根差していた。

 して、そんな雲の上の存在である羽衣石家の人間が、大金を持って文乃の元へやって来た理由は何なのか。

 ますます怪しさが増してきた昴に、文乃は恐る恐る尋ねてみる。

「ええと、それでどのようなご用件でしたっけ……?」
「結婚を前提にお付き合いしていただけないかと」
「すみませんお金見せないでください、ケース閉じて、危ないので、はい、お願いします」

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