恋愛経験ゼロの御曹司様が札束で口説こうとしてきた
 すっとアタッシュケースを閉じて足元に戻す昴に、何でいちいち大金を見せてくるのかと文乃は頭痛を覚えつつ一呼吸置く。

「……私、羽衣石さんとどこかでお会いしたことありましたっけ?」
「はい。三か月前の真夏日、火曜午前十一時ほどに」
「具体的」
「お恥ずかしながら人生初の二日酔いおよび熱中症で体調を崩していたところを、高良さんに助けていただきました」

 二日酔い……と文乃は記憶を遡る。そういえば、喫茶店の前にある広場で具合が悪そうな男性を見かけたことはあった。随分と青褪めていたから、水を渡して店内で少し休ませたのだったか。

 再び目の前の昴に意識を戻してみれば、なるほど確かにあのときの男性かもしれない。前と違って顔色も良いし姿勢もしゃきっとしているから、すぐには分からなかったが。

「ああ、ええと、大丈夫でしたか……?」
「お陰様で」

 座ったまま静かに頭を下げる昴に、文乃は慌てて「いえ」とかぶりを振った。

「たまたま見かけただけですから──」
「あの日から三か月ほど、高良さんの顔が忘れられなくて」
「え」

 昴はそこでぐっと目を閉じる。

「醜態を晒す私に少し引きながらも向けてくれた優しい笑顔、背中を控えめに擦る小さな手。あなたが渡してくれたお水はこの世のものとは思えないほど美味かった」
「ウォーターサーバーのお水は美味しいですよね」
「女神かと思いました」
「そんな馬鹿な……」

 引きつり笑顔で水を渡してくる女神、なかなか嫌な奴だと思うのだがどうなのだろう。

 文乃の多大な困惑など露知らず、昴は小さく咳払いを挟んで言った。

「高良さん、そういうわけで私と交際していただけませんか」
「え……と、どうしてそのつど大金を見せてくるのかがよく分からないんですが、羽衣石さん」
「はい」
「私、しばらく恋愛はちょっと──遠慮したくて」

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