いじめられ少女が腹黒優等生の一軍男子に溺愛されるまでの青春ラブストーリー【高嶺の君とキズナを紡ぐ】
*
「成海のためにわざわざ来てくれて、本当にありがとうね」
津田成海の母親は、丸い顔をほころばせて笑った。心から喜んでいる様子に、咲乃はやんわりと無難に笑顔を返す。今更、「家に上がるつもりはなかったので、もう帰ります」なんて言えない。
マンションの集合ポストから例の不登校生徒の部屋番号を探して、封筒を投函しようとしていたところ、運悪く買い物帰りの母親とたまたま鉢合わせてしまった。津田成海の母親は、よほどクラスメイトの訪問が嬉しかったらしい。咲乃が断る隙もなく、せっかくだからと押し切られ、そのまま家に上がることになってしまった。
津田成海の母親は、全体的に丸い人だった。咲乃よりも背が低く、ころころとしていて忙しなく動いている。おしゃべりが好きらしく、買ってきたものを冷蔵庫にしまいながら、ずっと咲乃にしゃべりかけていた。
「呼びかけても部屋から出ないんだもの、せっかく咲乃くんが来てくれたのに。ごめんねぇ。咲乃くんは、最近転校してきたの? じゃあ、新しい学校になじむの大変でしょう。――また、あの子ってば自分が使ったコップそのままにして。家にいるんだから洗ってくれればいいのに――。めったにお友達なんて来ないから、咲乃くんが来てくれて嬉しいわ! きっと、あの子も喜ぶわよ。もし、良かったら仲良くしてあげてね。ミルクティのおかわりはいる?」
「いえ、結構です」
咲乃はすでに、早く帰るための口実を考えるのを諦めていた。成海の母親のおしゃべりが凄すぎて、さえぎる隙がない。むしろ、下手な言い訳で逃げ帰ろうとするよりも、津田成海に一言あいさつして帰った方が早そうだ。
咲乃は、居心地の悪さを紛らわせるように、ミルクティを飲みながらリビングの中を観察した。ベランダにつづく大きな掃き出し窓。液晶テレビとソファ、ローテーブル。棚や壁には、家族写真が飾られ、剣道二段の賞状が飾られている。
どこにでもあるような、平凡な家庭風景だ。写真の中に子供たちが写っている。姉妹だろうか。むすっと不機嫌そうな細身の少女と、ぷっくりした頬に泣き跡をつけた、まんまるな幼い少女が並んで立っている。
ミルクティを飲み終えると、咲乃はようやく腰を上げた。
「ごちそうさまでした、僕はそろそろ――」
「あら、ドーナツはいいの?」
ミルクティと一緒に出されたドーナツは、一口も手を付けずに残っている。
「すみません。津田さんにごあいさつしてから帰ります」
津田成海の母親に案内され、成海の部屋の前に立った。閉ざされた扉からは物音ひとつ聞こえない。本当に中に人がいるのかと疑ってしまうくらいに静かだ。
咲乃は、遠慮がちに部屋の扉をノックした。
「はじめまして、津田さん。同級生の篠原です。最近、転校してきたばかりなんだ。よろしくね」
「……」
帰ってきたのは、無言だった。咲乃を警戒しているのか。物音すら立てない。本当に人がいるのかと疑いたくなるほどの静寂に、咲乃は負けじと言葉を続けた。
「実は今日から、キミにプリントを届ける役になったんだ。だから、そのご挨拶に来たんだけど。これ、学校のお知らせ。ドアの下から入れるね」
封筒を、ドアの下の隙間に差し込む。少しだけ、耳をそば立てて部屋の奥の人の気配を探したが、やはり、物音などしなかった。
これ以上呼びかけても、まともな反応が返ってくることはないだろう。そう、咲乃は判断すると、肩にかけた学生かばんの紐を改めて肩にかけ直した。
「それじゃあ、今日はもう帰るよ。いきなり来てごめんね、津田さん」
咲乃は、津田成海の母親に別れの挨拶をしてから、外に出た。5時を告げる『蛍の光』が流れている。
「あの子と話せた?」と尋ねた母親の顔には、隠しきれない期待があった。
咲乃が首を横に振ると、母親は残念そうに眉を下げて、「来てくれたのに、ごめんなさいね」と謝った。クラスメイトの訪問という初めての出来事に、希望を抱いたのかもしれない。心配されているとわかったら、成海も学校へ行く気になるのではと思ったのだろう。
きっと母親が考えるような、そんな安易な問題ではない。いじめにあったという神谷の話が本当であれば、津田成海にとってクラスメイトの訪問は恐怖でしかないし、警戒しないはずはないのだ。おそらくあの母親は、津田成海が学校でいじめられていたことを知らない。
不意に胸の奥がうずいた。忘れられない記憶が、残像となってよみがえる。
痛みに耐えるように息を吐いた。じっとり首筋に汗がにじむのは、まだ9月の熱が残っているからか。
また金曜日が訪れて、咲乃は津田成海の家のマンションに来ていた。
今日は、封筒をポストに入れてすぐに帰るつもりだ。またあの母親と鉢合わせて、家に招かれても気まずい思いをするなんてことは避けたい。
部屋番号を探し、ポストに封筒を入れようとした――。
しかし気づいた時には、インターホンを押していた。咲乃自身が驚くほど、まるで吸い寄せられるようだった。
心の準備などできていない。関わらないと決めていたのに。それでもきっと、関わらないなんて無理だった。このクラスに転校して、空席があると気づいた時から。
玄関が開く。丸々とした津田成海の母親が、嬉しそうに咲乃を迎えた。
「成海のためにわざわざ来てくれて、本当にありがとうね」
津田成海の母親は、丸い顔をほころばせて笑った。心から喜んでいる様子に、咲乃はやんわりと無難に笑顔を返す。今更、「家に上がるつもりはなかったので、もう帰ります」なんて言えない。
マンションの集合ポストから例の不登校生徒の部屋番号を探して、封筒を投函しようとしていたところ、運悪く買い物帰りの母親とたまたま鉢合わせてしまった。津田成海の母親は、よほどクラスメイトの訪問が嬉しかったらしい。咲乃が断る隙もなく、せっかくだからと押し切られ、そのまま家に上がることになってしまった。
津田成海の母親は、全体的に丸い人だった。咲乃よりも背が低く、ころころとしていて忙しなく動いている。おしゃべりが好きらしく、買ってきたものを冷蔵庫にしまいながら、ずっと咲乃にしゃべりかけていた。
「呼びかけても部屋から出ないんだもの、せっかく咲乃くんが来てくれたのに。ごめんねぇ。咲乃くんは、最近転校してきたの? じゃあ、新しい学校になじむの大変でしょう。――また、あの子ってば自分が使ったコップそのままにして。家にいるんだから洗ってくれればいいのに――。めったにお友達なんて来ないから、咲乃くんが来てくれて嬉しいわ! きっと、あの子も喜ぶわよ。もし、良かったら仲良くしてあげてね。ミルクティのおかわりはいる?」
「いえ、結構です」
咲乃はすでに、早く帰るための口実を考えるのを諦めていた。成海の母親のおしゃべりが凄すぎて、さえぎる隙がない。むしろ、下手な言い訳で逃げ帰ろうとするよりも、津田成海に一言あいさつして帰った方が早そうだ。
咲乃は、居心地の悪さを紛らわせるように、ミルクティを飲みながらリビングの中を観察した。ベランダにつづく大きな掃き出し窓。液晶テレビとソファ、ローテーブル。棚や壁には、家族写真が飾られ、剣道二段の賞状が飾られている。
どこにでもあるような、平凡な家庭風景だ。写真の中に子供たちが写っている。姉妹だろうか。むすっと不機嫌そうな細身の少女と、ぷっくりした頬に泣き跡をつけた、まんまるな幼い少女が並んで立っている。
ミルクティを飲み終えると、咲乃はようやく腰を上げた。
「ごちそうさまでした、僕はそろそろ――」
「あら、ドーナツはいいの?」
ミルクティと一緒に出されたドーナツは、一口も手を付けずに残っている。
「すみません。津田さんにごあいさつしてから帰ります」
津田成海の母親に案内され、成海の部屋の前に立った。閉ざされた扉からは物音ひとつ聞こえない。本当に中に人がいるのかと疑ってしまうくらいに静かだ。
咲乃は、遠慮がちに部屋の扉をノックした。
「はじめまして、津田さん。同級生の篠原です。最近、転校してきたばかりなんだ。よろしくね」
「……」
帰ってきたのは、無言だった。咲乃を警戒しているのか。物音すら立てない。本当に人がいるのかと疑いたくなるほどの静寂に、咲乃は負けじと言葉を続けた。
「実は今日から、キミにプリントを届ける役になったんだ。だから、そのご挨拶に来たんだけど。これ、学校のお知らせ。ドアの下から入れるね」
封筒を、ドアの下の隙間に差し込む。少しだけ、耳をそば立てて部屋の奥の人の気配を探したが、やはり、物音などしなかった。
これ以上呼びかけても、まともな反応が返ってくることはないだろう。そう、咲乃は判断すると、肩にかけた学生かばんの紐を改めて肩にかけ直した。
「それじゃあ、今日はもう帰るよ。いきなり来てごめんね、津田さん」
咲乃は、津田成海の母親に別れの挨拶をしてから、外に出た。5時を告げる『蛍の光』が流れている。
「あの子と話せた?」と尋ねた母親の顔には、隠しきれない期待があった。
咲乃が首を横に振ると、母親は残念そうに眉を下げて、「来てくれたのに、ごめんなさいね」と謝った。クラスメイトの訪問という初めての出来事に、希望を抱いたのかもしれない。心配されているとわかったら、成海も学校へ行く気になるのではと思ったのだろう。
きっと母親が考えるような、そんな安易な問題ではない。いじめにあったという神谷の話が本当であれば、津田成海にとってクラスメイトの訪問は恐怖でしかないし、警戒しないはずはないのだ。おそらくあの母親は、津田成海が学校でいじめられていたことを知らない。
不意に胸の奥がうずいた。忘れられない記憶が、残像となってよみがえる。
痛みに耐えるように息を吐いた。じっとり首筋に汗がにじむのは、まだ9月の熱が残っているからか。
また金曜日が訪れて、咲乃は津田成海の家のマンションに来ていた。
今日は、封筒をポストに入れてすぐに帰るつもりだ。またあの母親と鉢合わせて、家に招かれても気まずい思いをするなんてことは避けたい。
部屋番号を探し、ポストに封筒を入れようとした――。
しかし気づいた時には、インターホンを押していた。咲乃自身が驚くほど、まるで吸い寄せられるようだった。
心の準備などできていない。関わらないと決めていたのに。それでもきっと、関わらないなんて無理だった。このクラスに転校して、空席があると気づいた時から。
玄関が開く。丸々とした津田成海の母親が、嬉しそうに咲乃を迎えた。