唇から始まる、恋の予感
バッグに部長のお礼と用意したチョコレートを入れて、少しドキドキしながら出勤した。
電車に揺られながら、買い置きのチョコレートをお礼にと渡すのはやっぱりどうかと思って、駅を出た正面にあるカフェで、個包装のクッキーを添えた。

「こんなもので申し訳ないけど」

お返しはその度合いが難しいと初めて思った。家族以外からプレゼントを贈られた経験がない私は、お返しの経験もなくて、どのようにして、どのくらい、どういったものがいいのかという、必要最低限の常識も知らなかったと恥ずかしく感じた。
部長へのお返しは、買い置きのチョコレートとカフェで買ったクッキーが一枚だけど、重くならない程度を配慮して、気持ちは込めたから十分だと、自分を納得させた。
いつもと同じの誰もいないオフィスに入って、コーヒーの準備をする。今日はいつもの場所へ行かず、ここで部長を待つつもりだ。
部長が出勤してくるまでの時間がすごく長く感じて、そわそわして落ち着かない。座ったり、掃除をしたり、窓から景色を眺めたりしてもだめだった。
腕時計をみると、そろそろ部長が出勤してくる時間で、動悸まで激しくなってきた。

「いやだ、どうしよう。チョコを渡すだけなのに、私ったら」

免疫がないって怖い。深呼吸をして落ち着かせようとしたとき、エレベーターホールの到着する音がチンと鳴り、誰もいないオフィスに音が響いた。

(多分、部長だわ)

コツコツと靴の音がして、だんだんとその音がこちらに近づいて来る。

「おはよう」

部長が先に私を見つけ、挨拶する。

「お、おは、おはようございます」

私は慌てて立ち上がると、椅子がガタガタと倒れてしまった。静かなオフィスに金属音が鳴り響き、慌ててしまう。本当に恥ずかしい。

「大丈夫!?」

部長が来て椅子を立て直してくれた。もっとスマートにする予定だったのに、これでは先が思いやられる。

「す、すみません」
「怪我は?」
「いえ、何も……大丈夫です。ありがとうございます。すみません」
「怪我がないなら良かった。今日はデスクにいるんだね」
「は……い」
「じゃ……」

短い会話で終わると、部長はデスクに向かった。
自分が想定していたのと全く違ってしまったけれど、コーヒーを入れてチョコを持って行くということはまだ出来る。


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