唇から始まる、恋の予感
デスクに戻ると、ぞくぞくと社員が出社していて、給湯室は朝のコーヒーを待つ列が出来ていた。

「おはようございます」

川崎さんに挨拶すると、また眠そうな顔で挨拶を返された。本当に大丈夫だろうかと、心配になる。夜更かしをしているのか、それとも何か身体の不調でもあるのかと、気になってしまう。一番心配なのは、川崎さんの居眠りが見つかったらどうしようというところだけだ。人が怒られる所と、大きな声を出されるのがとても苦手で怖いから、それだけは避けてほしいと願っている。

「あの、川崎さん」
「は、はい」
「怠そうですけど、大丈夫ですか?」
「すみません、大丈夫です」

声は元気だから心配なさそうだ。人に関心がないのに、なんで声をかけたのだろう。
眠そうでも仕事でミスしたり、支障をきたしたりしないのだから私が気にすることでもないけど、どうしてこんなことをするのか、自分でも分からない。
それに、私は朝の一番で有休の申請をしなくてはいけないという大仕事があって、川崎さんのことに構ってはいられないはずなのに、こんな声かけをしてしまうのはたぶん、自分も誰かに話をして緊張を解きたいのかもしれない。
夏休みでも年末年始もないこの時期に休みをとるのだから、申請も勇気がいる。
有休の消化ができない理由の一つがこの申請で、書面での申請は何も問題ないけれど、上司に報告をするということが、とても苦手だった。こんなに長く休むのか、なんで今頃と思われていないかと、変に勘ぐってしまうからいけない。
それでも報告はしなくてはいけなくて、出勤してきた係長が席に着くや否や、真っ先にデスクに行った。

「係長、おはようございます」
「ああ。おはよう。白石さん」
「大変申し訳けないのですが、一週間ほど有休を申請させていただけないでしょうか?」
「白石さんが珍しいね。いいよ、休みなさい。有休も全然使っていないようだし、しっかりと休養して」
「ありがとうございます」

すんなりと受け入れてもらえて良かった。たったこれだけのことなのに、伝えることを家で練習したりして、言う練習をしていた。
申請するフォルダを開いて、指定の様式に入力して、電子で承認を得る。ほんの数分で私の休みは取れた。

(こんなに簡単なのに)

簡単なことも出来ない自分がつくづく嫌になるけど、それもしょうがないことと思って付き合っていかなければならない。ここまで立ち直るのに、相当の時間を要しているのと一緒で、いつかそれも出来るようになると、長い目で見ていくしかない。
そしてまだ眠そうな川崎さんにも勇気を出して伝える。

「川崎さん」
「はい」
「有休を一週間ほど取りますので、お願いしたいことを引き継ぎしてもよろしいでしょうか?休み前に処理はしていきますが、何かあったときにお願いしたいので」
「あ、はい。分かりました」
「では、後でお時間をください」
「はい」

せっかく取れた休みなんだから、良いことだけを考えよう。有休は私の誕生日に合わせて取った。綾香と買い物に行ってもいいし、美味しいものをデリバリーしてもいいかな。楽しみのない日常だけど、誕生日だけは気分も上がる。いじめが酷かったときは、なんで生れて来たんだろうと思ったけど、今はなんとか楽しめるまでになった。
休みまでに仕事をきちんと整理りして、引き継ぎをしなくてはいけない。特別気合が入っているわけじゃなけど、休みのことを考えると、がぜんやる気が出てきて、有休までの間私はいつも以上に仕事をした。

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