唇から始まる、恋の予感
やっと秋らしくなったとつい最近感じたばかりなのに、秋は短くあっという間に終わりを迎えてしまった。窓を開けて空気を入れ替えると、吐く息は白く、北風が頬に突き刺さる冷たさが、冬を感じさせてくれる。

「耳が痛くなっちゃうわ」

あまりの風の冷たさに、耳を両手で温める。冬はあまり好きじゃなくて、いつもより家に籠る日が多くなる。冷たい風だけど、休みを楽しみにして待っていた私には、気持ちいい風に感じた。
マンションの周りを囲んでいる木がすっかり枯れて、風に吹かれひらひらと落ちていく。

「うれし~休みだわ」

いつもと同じ時間に起きて、実家へ帰るための支度をする。いつもなら観ることが出来ない朝の情報番組を見て、なんだか優越感に浸る。

「川崎さんは大丈夫かしら……」

有休に入る前に私は、一袋の飴とお菓子を少し用意して渡した。いくら権利とは言っても、一週間も有休を取ってしまうのはやっぱり後ろめたいし、申し訳なさと眠気防止、居眠りで怒られませんようにと祈る気持ちを合わせて渡した。

「これくらいでいいかな」

実家で過ごすだけだから、必要最低限の服だけでいい。ボストンバッグに詰めて、マンションを出た。
なんだか小旅行のようだけど、実家は一時間半もあれば着くところにあって、遠からず知っからずといった距離に住んでいる。
会社に向かう電車は、緑の街並みからビル群へと景色が移り変わって行くけれど、実家に向かう電車はその逆だ。電車内は仕事に向かう人がいて、自分は休みだと思うと、小さな優越感に浸る。乗換をして実家最寄りの駅に着くと、駅に母親が迎えにきてくれていた。

「智花」

駅前のロータリーで窓を開けて手を振っている母親を見つけ、同じように手を振り返す。

「ただいま」
「お帰り」

近くに住んでいるのに帰らない娘を、両親はどう思っているのだろう。両親はいまだ私に対して話す言葉を慎重に選んでいる。

「美人」
「綺麗」
「可愛い」

と、その人の容姿を褒める言葉を言わない。そのことに気が付いたのは大学生になってからだった。私の存在は、家族に綺麗を形容する言葉まで奪ってしまっていたのだ。
社会人となって、数々の失敗を繰り返して、メンタル的には強くなっている。私が発作を起こすのは、あの時と同じような環境になってしまうときだけで、普段はなんともない。両親と私の間には、あのことがいつまでもくすぶっている。

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