唇から始まる、恋の予感
「買い物は済んでるから、何処もよらずに帰るわよ」
「いいよ」
「会社はどうなの?」
「いつもと一緒よ」
「そう」

駅から実家まではバスか自転車が必要で、箱入り娘でもないのに、大学を卒業するまで送り迎えをしてもらっていた。

「綾香も真っすぐ帰るって言ってたわよ」
「残業にならなければいいけど」
「あの子のことだから、断って帰ってくるわよ」
「そうね」

綾香はハキハキして、きちんと意見も言える子だけど、言いすぎる所もあってトラブルにならないかとヒヤヒヤする時もある。
車だと5分ほどで家についてしまう距離を、心配性の両親は私たちが社会人になるまで続けてくれた労力のことを思うと、感謝しかない。
駅から家までは、銀杏並木が続き、紅葉が始まる季節は、この景観を撮影するために人が集まってくるほどだ。
駅から真っすぐの道は、夜にライトアップされると本当にキレイだ。

「イルミネーションが始まってる?」
「先週末に業者の人が作業してたわよ」

クリスマスが近づくと、ライトアップが始まる。これと言って飾り付けはしないけれど、ライトを巻きつけただけでこの街路樹は成立する綺麗さだった。

(自分の街は何もないと思ってたけど、この街路樹があったわ)

部長が長野がいい所だと言ったとき、実家は何もないなと思っていたけれど、この街路樹があった。

(部長に見せてあげたいな)

何を考えているのだろう。人をバカにするのもいい加減にしろと、自分のことを怒鳴りつけたい。自分から切っておいて、ことあるごとに部長のことを考えるなんて、本当に失礼。
車が実家に着いて家のなかに入ると、懸命に一人で生活している私が身にまとっている鎧みたいなものがはがれて、その安心感からか、とてつもない疲労感に襲われる。それはいつものことなんだけど、今回は特にそれを感じた。


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