唇から始まる、恋の予感
「お母さん、少し部屋で休んでくるね」
「仕事、忙しいの?」

母親は休んでくると言った途端に、心配顔になった。そんな顔をさせてはいけないのに、いつになったら安心させてあげられるのだろう。

「一週間の休みを取るために残業してたから」
「そっか、休んでなさい」
「ありがと」
「あ、布団は干してあるからすぐに寝れるわよ」
「いつもありがとう」

平凡な何処にでも建っている戸建ての家。
二階は私と妹の部屋と、両親の寝室がある。
私には家の相場価格は分からないけれど、父親曰く、この場所だからこの間取りと価格で買えたんだと言っていた。
確かに一人暮らしをしているマンションの周りにある戸建ての家は、小型の車が一台駐車出来るスペースがある程度で、庭が見当たらない。そう考えれば、父親が言うように、実家は広い方なのだろう。

「あ~やっぱり実家はいいなぁ」

荷物を置くなり、ベッドに大の字になる。中学生の時から使っているごく普通のベッドと学習机。小学校に入学するときに買ってもらった机は、社会人になって家を出ていくまで使っていた。ベッドの枕元には、子供のころから大切にしている、猫とパンダのぬいぐるみがくたびれて置かれている。

「お父さんが買ってくれたんだっけ」

この猫のぬいぐるみが欲しくて、泣いてせがんだ覚えがある。

「くたくたになっちゃって」

パンパンと叩いてみても膨らまないぬいぐるみだけど、愛着があって捨てられない子たちだ。辛い思い出しかない場所でも、実家は私の拠り所。
太陽で温められた温もりと、ほんのり薫草や木、太陽の匂い。布団はふかふかで、外の匂いがする。

「お母さん、いつもありがとう」

帰ってくる日はいつもふかふかの布団が迎えてくれる。これも母親の愛情なのだと思うと、布団の温かさも倍増して感じる。
そんな布団でゴロゴロしていて、リラックス状態で横たわっていると、当たり前のように睡魔に襲われた。

「昼寝でもしようかな」

目を閉じて、意識が遠のいていくのを感じていると、下のキッチンからソースが焼ける匂いがしてきた。

「焼きそば……」

腕時計を見ると、もうすぐ12時になるところだった。
匂いは私のお腹を刺激するのと同時に、空かせる能力もあって、きゅるるるっとお腹が鳴った。眠気はすっかりなくなり、ベッドから起き上がる。
実家は唯一素の状態で食事が出来る場所。人目を気にせず、普通に食事が出来る場所は、私にとって大切なこと。いつもの食べ方は、美味しいご飯でもまずくなり、食べ方ばかりを気にするあまり、美味しいかまずいかの判断まで鈍くなってしまう。

「今日も部長はコンビニごはんかな」

社員に美味しいと評判の社内食堂もあるのに、いつもコンビニで買ってデスクで食べている。食べている間も仕事をしながらで、昼の休憩時くらい仕事から離れたらいいのにと、いつもおせっかいに思ってしまう。
一度でいいから社内食堂に行ってみたかった。綺麗になったときは退社をしてる時だから、それは叶わないけど、最後の一日だったら勇気を出して行ってみてもいい。


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