唇から始まる、恋の予感
給湯室を女子達が出て行ったあと、コーヒーの準備をする。自分のカップを取り出そうと棚見ると、奥に追い込まれた部長のマグカップがあった。ずっといないからどんどん奥に追いやられてしまったらしい。

「前に出して置かなくちゃね。リーダーなんだから」

人込みをかき分けるようにマグカップたちをどかして最前列に置く。
お寿司屋さんの店名が正面に向くように置くと、また寂しさが襲った。

「いけない、こんな所で」

滲む涙を何とか押さえて、コーヒーを入れる。
早朝でもないけれど、最初の一杯は確保した。
デスクに戻り仕事を始めると、私の目線の先には部長のデスクがある。

(なんで見えることろにデスクがあるのよ)

パソコン画面を見ているのに、視界に部長のデスクが入ってくる。絶対に帰ってくるのに、もう二度と会えないような気がしてしょうがない。

(はぁ~)

集中して仕事が出来ていないとき、係長の電話の会話が聞こえた。

「――――ええ、分かりました。長い間の出張お疲れさまでした」

出張? 今出張に行っているのは……。
急いでスケジュールを確認すると、部長の他に3人が出張に出ているが、その人たちは日帰りの予定になっている。
長い間と言っていたから……。

(部長が帰ってくる)

急に胸がドキドキして、手も心なしか震えているし、緊張で冷たくもなってきた。とにかく私のいろいろな身体の場所が反応して、心なしか頬まで高揚しているみたいだ。
きっと今週は休まれて、週明けから出勤する予定だとおもう。今週くらい休んでゆっくりして出勤して欲しい。それくらいの我慢は出来る。
現金な私は、部長の帰国を確認すると、急にお腹が鳴った。食欲がなくて、簡単なもので済ませていた。
昼休憩のチャイムがなり、一目散でリフレッシュコーナーに向かう。

「お腹が空いた……」

作る気もなくて買ってきたおにぎりを広げる。買ったときは食欲がなくて一個しか買わなかったけれど、今はもの凄く後悔している。

「いいわ、散歩しながら何か買おう」

散歩用にと買った小さなトートバッグを持って席を立つと、正面から部長がトランクを引いて歩いてきた。

「部長……」

待ちに待った人が、私に向かって歩いてくる。ちゃんと労いたいのに、部長の姿が涙でゆがんで見えない。

「白石……ただいま」
「……お帰りなさい……」

部長の姿がはっきりと見えた時、大きく広い胸に抱きしめられていた。
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