唇から始まる、恋の予感
海に誘った俺に、「行きたい」と彼女が答えた。
たったそれだけのことを言うのに、どれたけの勇気と時間を使ったことだろう。

「ん?」

彼女が席を外しているとき、デスクの後ろを通りかかったとき、小さく折りたたんだ紙を拾った。ゴミだと思ったが、几帳面に綺麗な四角におられていたその紙は、なんだか大切な物のように思えて、誰の物なのか知るために、広げて見た。

「白石のか……」

綺麗で几帳面な字は見覚えがある。白石のだった。
そこには「やりたいことリスト」と見出しがあり、その下にはびっしりとやりたいことと思われることが書いてあった。
そこに書いてあるのは、俺が何も意識しないで、当たり前のようにやってきたことが「やりたいこと」として書いてあった。
彼女がいじらしくて、守ってやりたい気持ちが大きくなり、断られてしまったが、白石の気持ちが落ち着くまでいくらでも待つと決めた。
白石が、俺に対する気持ちを告げると想像もしなかっただけに、

「上司と部下でいるのは無理」

これを言われたときは、終わったと、本当に俺と白石の繋げる糸が切れたんだと落胆してしまったが、そうではなかったことに、冷静さを装っていたが、実のところ飛び上がりたい程、狂喜乱舞していた。
そして俺はまたまた、植草と五代にこのことを報告した。

「良かったわね。でもいつ発作が出るか分からないんだから気を付けてあげてよ」

医師である植草は心配して言った。
二つの報告を兼ねて社長室を訪ねる。

「社長はいる?」
「自席にいらっしゃいますよ」

マンションにいるときとは正反対の水越さんだ。社長の右腕そのものの顔をしてデスクに座っていた。

「この後の社長の予定は?」
「外出、会議のご予定はございません」
「わかった、時間はとらせないけど、報告をしてくるから」
「畏まりました」

水越さんが社長室のドアを開けて、五代に繋げると、ご苦労だったなと五代が言った。

「仕事だから仕方がないが、マジで今回ばっかりは辞めたくなったぞ」
「お前だから頼めたし、解決できたんだ。感謝してるよ」
「一か月だぞ、一か月。本当に勘弁してくれよ」
「本当に助かったよ。借りは必ず返すから」
「じゃあ、その借りを今返せ」
「何だ?」
「車を貸せ」
「は? 車?」

五代が首をかしげた時、ドアをノックして水越さんが自慢のコーヒーを持って入って来た。

「コーヒーをお入れしました」
「ありがとう」
「沙耶」
「はい?」

まだ業務中だというのに、社長室の中は治外法権なのか、恋人の名前をストレートに呼ぶ。俺は秘密裏にしなくちゃいけないというのに、腹が立つ。

「ちょうどよかった、水越さんも一緒に聞いて欲しいことがある」
「私もですか?」
「横に座りなさい」

大きな応接セットのソファの中心に座っていた五代は、水越さんを横に座らせた。

「彼女と付き合うことになった、それだけだ」
「やった! やりました! 満塁ホームランですね!」

水越さんが立ち上がって喜んでくれたけど、彼女の表現の仕方は独特で、横に座っている五代は困り顔だが、見守る目は優しい。こんな風になるといいなと内心思っているけど、白石には言わないでおく。水越さんは、大きく拍手までして大げさだけど、誰にも公表できない俺たちと一緒だから、余計に感情もはいるのだろう。



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