唇から始まる、恋の予感
「食べないのか?」
「はい」
「手を付けていないようだが、腹は減っていないのか?」
「大丈夫です」

本当はお腹が空いてしょうがないけれど、食べられないから仕方がない。部長が歓迎会に戻ってくれれば解決するのに、このパターンではいつも私が貧乏くじを引く羽目になる。だから、そっけなくして断るしか方法がないのだ。

「最後まで参加せずに申し訳ありませんが、お先に失礼します」
「少しだけ、少しだけでいいから俺の話に付き合ってくれないか?」

本音は帰りたかったけれど、拒むことも出来きない優柔不断さ。私はゆっくりと頷いた。

「上の方だけしか見えないけど、東京タワーが見えるだろう?」
「はい」
「東京タワーを見た時、帰ってきたな、と思ったんだ。なんだかんだ言っても東京タワーはいいよな」

日本から出たことがない私には分からないけれど、長く離れていた部長には感慨深いものがあるのだろう。

「だいぶ中は変わったか?」
「それほどでは。お茶の当番がなくなったくらいです。コーヒーマシンは一度点検と修理をしましたが、まだまだ現役でおいしいコーヒーが飲めますし」
「白石はコーヒーが好きだからな。良かったよ」
「……はい」
「それと……」
「はい」
「産業医だけど」
「……はい」
「診察に来てくれと依頼があったぞ」

私は面倒で行かなかった訳じゃなくて、行けば思い出したくない過去を話さなければいけなくて、それが嫌でわざと行かなかった。




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