唇から始まる、恋の予感
ファイブスターは、学校のチャイムのように始業、就業、昼休憩の始まりと終わりを鳴らして社員に知らせている。いつも5分前にはデスクに戻っているけど、うっかりしてしまうことがなくて、いい習慣のように思う。
私は海外事業部の庶務を担当していて、入社以来異動することなくずっとここにいる。
変化が苦手な私には、とても良い職場なのだ。

「白石さん」
「はい」

庶務係長から声をかけられ、あわてて立ち上がる。

「来週から大東さんが着任するから、IDカードや必要な書類の準備を頼むよ」
「かしこまりました」

大東さんはとても優秀な人で、アメリカの事業所に海外赴任を命ぜられて、すでに5年がたっていた。海外事業部にいる人なら、海外で仕事をしてみたいと思うのが当然で、毎年希望を聞いて、管理職と面談、試験や家族構成などを考慮して海外勤務者が決められる。
大東さんのアメリカでのポストは支部長補佐。大東さんに至っては、本人の希望を聞くことなく、半ば強制的に海外転勤を命ぜられたようだ。
庶務係長から渡された資料を見ると、役職は海外事業部部長になっていた。
新年度を待たずに役職が変わるのは、異例のことで、それだけ期待されているのだろう。
大東さんがいない5年間に、ファイブスターのセキュリティは厳しくなり、何をするにもIDカードとパスワードが必要になっていた。
私は何も変わらずここにいて、大東さんは出世街道を歩いていく。
特別羨むことはないけれど、私のように暗く深い海の底のような人生を歩いている人はそういないだろう。


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