唇から始まる、恋の予感
「ご迷惑をおかけして申し訳ございません」
「迷惑じゃないよ、そんなことは気にしなくていいが、身体だけは大切にしないとダメだぞ」
「はい」
「今は? 大丈夫なのか?」

これから先、強引に何かしたりしなければ大丈夫です。と答えたかったけど、そんなことは言えなくて、ただ返事をした。

「はい」
「よかった。安心したよ……」
「……すみませんでした」
「……」
「ごめん、ちょっと外れるよ」
「はい」

部長が席をはずした。帰るなら今しかない。私は急いでエレベーターに乗った。
お料理のお皿もグラスも、あそこに放置してしまった。
こんなことをしたら、さらに顔を合わせずらくなるのに、どうにもならなかった。
悪いことは何もしていないのに、部長と二人になると、必ず私が逃げることになる。家族以外で長い時間を過ごすのは、私にとってとても大変なことなのだ。
何も言わずにいなくなるなんて、失礼だとも思うし、人の気持ちを考えていないと思うし、何より、後味が悪い。それでもこうするしかない私の気持ちを分かってほしい。

「はあ、はあ」

走る私とすれ違った人たちは、何事かと思っただろう。
ほっと出来たのは、電車に乗った時だった。

(お腹が空いた……)

食べ損ねてしまったお料理に後悔が残るけど、あのときの嫌な記憶も同時に蘇った。

< 30 / 134 >

この作品をシェア

pagetop