唇から始まる、恋の予感
目を開けると、そこは会社の医務室だった。ベッドのそばには部長が祈るような形で私の手を握っていた。

「部……長……」
「白石? 気がついたのか? 体調は? どうだ?」

少し頭が重かった。感情をむき出しにして部長に八つ当たりして、本当に恥ずかしい。さらに寝顔まで見られてるなんて。
起きあがろうとしたとき、そっと部長が背中を支えてくれた。

「起きて大丈夫か?」
「はい」

醜い寝顔を見られていたと思うと、恥ずかしくて髪で顔を隠した。

「白石さん? 気がついた?」

植草先生の声だ。こんな夜に何故先生がいるのだろうか。

「あの……」

私の手首に指をあてて脈をはかっていた。

「大丈夫そうね」
「先生はどうして……」
「分かるでしょ? 大の男がパニックになって電話をしてきたのよ」
「うるさいな」

仲の良さそうな感じだけど、社員と産業医の間柄ではないのだろうか。そんな私の胸中が分かったのか、

「大学は違うんだけど、大学時代に知り合ったのよ」

植草先生が言った。どうりで、この会社で知り合ったには仲が良すぎると思っていた。

「白石さんは急な生活の変化で疲れちゃったのよね」

先生は私の頭をなでながら、子供をあやすかのように言った。

「あともう少しなんです。もう少ししたら私は生まれ変わって新しい人生を始めるのに。計画は順調にすすんでいたのに」
「……?」
「帰ります。ご迷惑をおかけしました」

お腹は空きすぎているし、頭は痛くて、のども痛い。もう、悲惨すぎる。傍で診察を見守っていた部長が、立ち上がる私を支えてくれた。

「送っていこう」
「大丈夫です」
「今日は遅らせてくれ」
「その方がいいわ、白石さん」
「……わかりました」

怠い身体を部長に支えてもらって、なんとか医務室を出る。
私に歩調を合わせて、ゆっくりと先を歩く部長の背中。
この背中に見覚えがある。
新入社員だったころ、資料の順番を間違えて組んでしまい、慌てて入れ替え作業をしていた。
泣きそうな私をサポートしてくれた部長は、怒らず、慰めもせず、ただ黙って一緒に作業をしてくれた。私はその部長の背中をただ見ていた。
自分でしたことは忘れても、してもらったことは忘れてはいけないというけれど、部長が私に向けてくれていた思いやりの数々を、すべて忘れているようで、私は自己中心的で、いつでも被害者だった。
一つ思い出すと、次から次ぎへと部長の優しさを思い出した。
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