唇から始まる、恋の予感
「俺はどうしてあげた方がいいのかな? 暗い所に一人で置いて帰るなんて出来ないのが俺。だけど、一人で帰りたいという君。どちらかが譲歩しなくちゃいけないけど、今日の白石を知っている俺は何があっても譲れない」
「本当に大丈夫なんです!」
「白石、落ち着いて」

部長は私を抱きしめた。背中をゆっくりとさすって落ち着かせようとしていた。また発作や気を失ってしまうのではないかと、部長は怖いのだろう。
興奮しているんじゃなくて、会話不足の私は、言葉の強弱も距離も分からなくて、人を傷つけないようにと気遣うのが精一杯。

「何が気になるのかな? 言ってみてごらん?」
「……」

背中に感じる大きくて、温かくて、優しい手。
ふりほどける力もあるのに、私はそうしないのは何故なんだろう。

「……お腹が」
「ん? 腹が痛いのか? どこが痛いんだ?」

抱き寄せていた私を離して、うつむいている私の顔をのぞき込むようにして心配している。
私は首を横に振って言った。

「朝から……何も食べていなくて……お腹が……その……空いて」
「え!? 朝から何も食べてないのか!?」

素直に頷いた。

「ちょっと待ってて」

部長は突然走りだして駐車場に向かった。すぐに戻ってくると、私にチョコレートを渡してくれた。

「とりあえずこれを食べて」
「……すみません」

一口で食べられるナッツのチョコ。これなら食べるところを見られても恥ずかしくない。
一つ口に入れると、次から次へと欲しくなった。まるで飢えた子供のようだった。

「そういえば昼は俺が邪魔したんだったな。ごめん」
「部長が悪いわけではありませんので」

食べなかったのは自分が食べない選択をしたからで、部長は悪くない。
お腹は糖分を入れたことで、いくらかましになった。

「それだけじゃ足らないだろ?」
「大丈夫です」
「……送ってもいいかな?」
「……はい」

気遣いのある運転で再び車は動き出した。
さっきは気がつかなかったけど、音楽が流れていて、久しぶりに音楽に耳を傾けた。
部長の好きな曲なのかな。部長は私の何をどこまで知っているのだろうか。私は部長だけじゃなくて、事業部の中、隣で一緒に業務にあたっている川崎さんのことでさえも、何も知らないのに。



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