唇から始まる、恋の予感
自分でも意外なほど落ち着いて話が出来ていた。過去を思い出す作業は、私を殺すほど辛い出来事のはずなのに、部長に伝えなければという思いが、私を雄弁にさせているようだ。

「私には、勉強をして本を読むしかなくて、それが良かったのか、進学校に進み大学も奨学金をもらって入学し、卒業しました。高校はいじめられていた私を知らない子ばかりだったから気持ちは少し楽になりましたが、その時にはすでに人を信じない、疑い深い人間になっていました。高校3年間も友達を作らず、ひたすら勉強をしていました。私が会話をするのは家族だけ、学校も必要最低限の事しか話しませんでした。大学に入学すると、周りの女子は本当に綺麗で、洗礼されたファッションに身をつつみ、生き生きと大学生活を楽しんでいる様子を見て、羨ましく憧れでもありました。でも同時に、私と一緒にすること自体おこがましいことだし、今更何かをしても何か変わることなんかないと、諦めてもいました。このかけているメガネ……視力はいいのですが、メガネをかけると顔が隠れると分かり、伊達メガネとしてかけるようになりました。メガネを掛けたら顔が変わったんです。そのとき、整形手術を思いつきました。社会人になって自分で稼いだ給料で整形するのだから、何も言わせないと、固い気持ちでした。整形は私に初めて出来た生きがいでもあって、就職活動はその目標があったからか、真剣に取り組みました。ファイブスターにエントリーしたときは、自分の大胆さに驚きましたが、何としても受かりたい一心で、一番苦手とする面接は、家族を相手にして練習を重ねました。そしてやっと実行に移す時が来たんです」

いつも下を向いている私も、この時ばかりは真っすぐに部長の顔を見て話をした。そしてこの人に、私の暗く重い過去を背負わせる訳にはいかないと強く思った。
部長は何も言わず、私の告白を、真剣に黙って話を聞いてくれていた。

「部長が私を好きだと言ってくださったことは嘘のようです。部長は素敵で、私のような心も顔も醜く、人とまともに付き合うことが出来ない社会不適合者とは、一緒にいてはいけません」
「白石……」
「すみません。先に謝っておきますが、階段での話を偶然聞いてしまったんです」
「それは……」
「だからどうと言うことではなく、やっぱり部長には自信に満ち溢れた魅力的な女性の方が、いいのかなと思ったりしています。私には他の女性と同じようになるまで、もう少し時間が必要で、少しだけでいいんです、自分自身を認めてあげて、前にでる自信が必要なんです。自分の揺れ動く気持ちの正体はなんなのか、ちゃんと自分と向き合ってみたいと思っています。こんな風に思えるようになったのも、部長のお陰です。中学時代のあの時から私は、毎日を生きるだけで精一杯でした。悩みも喜びも全て一人で解決して、共有しあってきたんです。今年度一杯で会社を退社するつもりでいます。新入社員のころ、丁寧に仕事を教えてくださったお陰で、今もこうして仕事が出来ています。ありがとうございます。部長の告白は、失っていた温かい感情が蘇った瞬間でもありました。あと少しですが、部下としてご指導をお願いします」

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