唇から始まる、恋の予感
「それから……」
「なんだ?」
「私がここにいるのは、あんたが家を出たからじゃないわよ。尚がいてお父さんがいて、この土地が好きだから離れないだけ。だからあんたはあんたの好きな人のことを考えていればいいわよ。お父さんのことは心配しないで」

姉貴は俺が気にすると思ったのだろう。母親が死んだとき、俺は高校生だった。姉貴は大学には進学せず、地元の企業に就職した。毎日俺の弁当を作り、毎日食事を作ってくれた。その姉貴に感謝もせず、俺は東京に出たきりになっていた。ずっとそのことを謝りたいと思っていたが、なかなか言えずにいた。
姉貴はきっと俺が気にしていることを分かっていたと思う。

「……悪い……ありがとう」
「あ~あたしも恋がしたくなったな。どこかに置いてきてしまったドキドキする気持ち。どこに行ったかな~」

姉貴の話を聞いてつらつらと思い出すと、「少しだけ時間がほしい、向き合う時間がほしい。この感情が何なのかそれがわかるまで」と言っていたはずだ。ニュアンスでもなんでも確かに言っていた。そうだ、完全にフラれた訳じゃないんだ。

「姉貴、俺は復活したぞ。そうだ、そういったよな。俺って早とちりだ」

落ち込みながら、しんみりと姉貴へ感謝の気持ちを確認していた俺だが、復活は早かった。姉貴は「アホらしくてやってらんない、早く帰れ」といって俺の頭を叩いた。
買い物をさせられて、さっさと実家に帰された俺は、母親の仏壇に手を合わせ、5年も放っておいたことを詫びた。息子が母親に好きな女のことを言うなんて、マザコンと言われても仕方がないが、好きな女にフラれてしまったと、つい報告してしまった。
きっと「情けない」と嘆いているだろう。
父親はぐっと年を取っていたが、家の中はとても綺麗にしていて、知らなかったが綺麗好きだったようだ。姉貴が作り置きをしているおかずがタッパーに入って、綺麗に冷蔵庫に並んでいた。
定年後、再雇用で働いたりしていたが、それも終わり、今は自治会の役員をして、掃除をしたり、防犯パトロールをしたりと、案外忙しくしているようだ。

「お前もいい年なんだから早く結婚しろ」

初めて向き合ってビールを飲んでいるときに言われた。
俺は独身主義者じゃなく、家庭を持ちたい派だ。結婚の話なんかだすから、また白石を思い出したじゃないか。これ以上何か言われないように、さっさと部屋に行って寝た。
朝は親父の作った味噌汁を飲んで、母親を思い出し、焼き魚、卵焼き、野沢菜漬けと定番の朝食が並んだ食卓を見て、俺はカレーしか作れないんだよなと、親父にあまたが上がらない帰省をしたが、姉貴が言った「恋しくてたまらなくなった」という言葉が頭から離れなかった。まさに今の俺の心情そのものだったからだ。

< 96 / 134 >

この作品をシェア

pagetop