唇から始まる、恋の予感
シャインマスカットが高いから嬉しいんじゃなく、ブドウが好きだと言った一言を覚えてくれていたことがとても嬉しかった。
定時に会社を出ると、混んでいる電車で潰れないかヒヤヒヤしながら乗っていた。
いつもより足取りも軽く家に帰ると、真っ先にブドウを冷蔵庫で冷やし、お風呂上りに食べた。嬉しい感情なんて久し振りで、なんだか心が弾む。

「おいしい……」

シャインマスカットなんて高くて買えなくて、コンビニで一粒程度乗っているデザートを買うのがせいぜい。
部長はどんな気持ちでこのブドウを持ってきてくれたのだろうか。きっと私が唐突に言った「ブドウが好き」ことを覚えてくれていたのだろう。

「部長にお礼を何か……」

誕生日にプレゼントをもらうのは家族だけ。プレゼントを渡すのも家族だけ。そんな私がお礼に何か返すなんて、何をどうしたらいいのかわからない。男性にプレゼントというと父親にしか贈ったことがない私に、本当の異性にお返しってどうしたらいいのだろう。

「ハンカチ……靴下……」

物を贈ってしまったら部長が気を使ってしまうだろうし、他に何も思いつかない。

「どうしらいいの?」

ブドウだけじゃなく、私は部長に頂いてばかりで、何も返せないまま終わってしまった。

「コーヒー……」

そうだわ、それがあった。
部長はリフレッシュコーナーに来なくなったけど、部署の誰よりも早く出社している。
その時にコーヒーを入れてあげて差し上げたらいいんだ。

「お金がかかっていないから、部長も気にしないでくれるはずよね。でも会社のコーヒーってどうなの? あまりにもセコ過ぎるし……そうだわ、何かお菓子でも付けてあげたらいいわね」

気を遣わせてしまわないようにと思うけど、それでもやっぱり何か返したい。

「何かあったはず」

お菓子が大好きな私は、いけないと思いつつ、お菓子を大量に買ってしまっている。そのなかから箱のチョコレートを見つけた。

「これでもいいかしら」

そしてまた、問題が見つかる。

「裸のままで渡す? いくら何でもよね」

何かラッピングの代用になるような袋はないかと、夜にガサガサと紙袋を探す。部長が戻ってきてからというもの、ずっと経験してこなかったことをやっているような気がする。
こうしてお礼返しの為に何がいいか考え、包む紙は何かないか探す。滅多に買い物をしない為に、包み紙一枚、紙袋一枚が見当たらない。些細なことも私はやってこなかったんだと、改めて痛感した。
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