俺様御曹司からは逃げられません!
「――おい、大丈夫か?」

 不意に手が差し伸べられた。
 茫然自失の楓の前に差し出されたのは、スラリと伸びた指先が美しい、節くれだった男性の手だった。
 
 おもむろに顔を上げると、恐ろしく顔の整った男性がしかめ面で楓の目の前に立っていた。
 
 艶のある漆黒の前髪から覗く、アンニュイな瞳が楓を見下ろしている。
 
 二十代後半くらいだろうか。
 自分とそう変わらないはずなのに、自分よりもはるかに成熟した大人の雰囲気を纏っていて、不思議と目が奪われる。
 
 身につけている仕立ての良いグレンチェックのスリーピーススーツは、見るからに高そうで。オーダーメイドなのか、長い手足にピッタリとフィットしていて、彼をより魅力的に演出していた。
 
 イケメンって笑顔じゃなくてもイケメンなんだな……なんて場違いな考えが頭をよぎる。
 あまりにも美しい造形に、今しがた見舞われた災難のことも忘れ、呑気にもぽうっと頬を染めて見入ってしまっていた。
 
 しかし――

「おい。聞いてるのか?」
「へ?す、すみません……」

 苛立ちが混じった声によって途端に現実へと引き戻された。
 ビクッと体を震わせ、楓はおずおずとその手を取って立ち上がる。

「派手に突き飛ばされていたな。怪我は?」
「いえ……ちょっと擦りむいただけなので、大丈夫です……。ありがとうございます……」

 本当はアスファルトに体をしたたかに打ちつけたせいで、あちこちが熱を持って痛むが、わざわざ告げるほどの怪我ではない。
 気丈に振る舞って笑みを浮かべると、目の前の彼は自らの顎を撫でて首肯した。

「じゃあ、ひとまず警察だけだな。こちらで連絡しよう」

 そう言うと、彼は自らの背後に視線をやった。彼の後ろには部下らしき男性が控えていて、その人へ警察に通報するよう指示を飛ばしている。
 
 楓は慌てて居住まいを正し、腰を折って深く頭を下げた。

「ありがとうございます……!スマホも盗まれてしまったので本当に助かります……」

 自分でそう言いながら、楓は己の言葉に引っかかりを覚えた。
 
 バッグの中にはスマートフォンだけでなく、財布や自宅の鍵等々の大事なものが全て入っていた。それらはバッグごと持ち去られてしまったのだ。
 
 それはすなわち、今日自宅へ帰るための手段も失われていることを意味していて――
 楓の顔からサーっと血の気が引いていき、無情な現実に再び打ちのめされる。
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