俺様御曹司からは逃げられません!
 そんな楓だったが、有名な五つ星ホテルの玄関口にタクシーが停車した時には流石に言葉を失った。
 
 絢人に手を取られて下車すると、ホテルの副総支配人だという男性が飛んできて、懇切丁寧な挨拶を受ける。
 本来なら総支配人が挨拶するところですが……と深々と頭を下げる偉い人の後頭部を見ながら、楓はあまりのセレブリティぶりに目眩すら覚えたのだった。
 
 そのまま副総支配人に先導され、楓は絢人と共に絢爛なシャンデリアが眩い煌びやかなロビーを歩く。
 
 ニットプルオーバーにジーンズという純然たる普段着の楓はさぞ浮いてしまうかと思ったが、ロビーには半袖短パンの外国人観光客もいて、意外にも白い目で見られることはなかった。
 だが乗り込んだエレベーターで副総支配人が発した一言によって、楓の体はピシリと硬直した。

「二見様、本日はいつものお部屋がご用意できず申し訳ございません」
「いや、急遽手配を頼んだからな。問題ない。いつも悪いな」

(へ、部屋……?)

 楓の耳が聞き間違えていなければ、絢人は客室を手配しているらしい。
 
 何のために……?
 
 一つの可能性が頭の中によぎった瞬間、楓の全身が発火したように熱くなった。自意識過剰だと笑われてしまうだろうか。けれども他の意味なんて思いつかない。
 
 絢人と副総支配人の会話がずっと遠くで聞こえる。まるで自分の周りに膜が張られたかのように、己の鼓動の音だけがよく響いていた。

 ポン、と落ち着きの払ったチャイムの音が聞こえ、目的階に到着したエレベーターが停止する。
 エレベーターホールには、イリスモールで別れたはずの佐伯が立っていた。

「じゃあ佐伯、あとは頼む」
「かしこまりました。楓様、ご案内いたします」
「へっ?え、あ……えっ?」

 そのまま佐伯に託されそうになり、楓は挙動不審になりながら彼らを交互に見やる。
 こんなところで放り出されても困る。そんな焦燥が顔にまざまざと表れていたのだろう。
 絢人はクスリと笑うと、楓の輪郭をそっと指でなぞった。

「心配しなくても、後で迎えに行く」

 彼の長い指が艶かしい所作で楓の輪郭を滑っていく。触れられた部分が爛れたようにヒリヒリと熱をもつ。
 
 絢人は最後に意味ありげに楓の下唇を親指でふにっと押すと、柔らかな目線でもって楓を送り出そうとする。
 そうするとまるで糸で操られたように、楓は彼の言うことを聞いてしまうのだ。
 
 エレベーターを降りる間際、離れ難い気分になって振り返ると、絢人は不敵な笑みを浮かべてこちらを見つめ返していた。その笑みは蠱惑的に楓を誘っているようにも見えて。
 扉が閉まった後も、楓の心は絢人の強い眼差しに射貫かれたままだった。
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