俺様御曹司からは逃げられません!
 楓はソファからすっくと立ち上がると、バッグを掴んで脇目も振らずに廊下へと向かった。
 もうここにはいられない。
 
 廊下へ続く扉を開け放つと、電話をしていた絢人が驚きで目を見開いていた。楓は構うことなく玄関へ突き進む。

「楓、どこ行くんだ?」
「帰ります。もう……絢人さんとは会いません」
「――――は?おい、ちょっと待て!どういうことだ!」

 焦ったような声で引き留める絢人を振り切り、楓は彼の家を後にした。
 
 カツカツカツカツとアスファルトを踏み締め、楓は駅に向かう。追いつかれないようにいつもと違う道を歩くが、周囲の様子はまるで目に入らない。

 ただ前だけを見据えて早足で歩いていると、燃えたぎっていた怒りがだんだんと鎮まっていった。
 代わりに楓の胸を支配したのは悲哀の情。
 燃え滓となってもまだ居座ろうとする恋心が切なく楓を苛んでいた。

「ひどいよ、絢人さん……」

 どうせ手放すのなら、こんなにも夢中にさせないでほしかった。
 自ら彼の手を取ったというのに、楓はそう嘆かずにはいられなかった。
 
 目頭が熱くなり、視界に涙の膜が張る。
 胸が張り裂けてしまいそうなほど苦しい。

「バカだなぁ……私、ほんとバカ……」

 こうなることは分かっていたはずなのに。それでも好きになってしまった。

 自分がどうしようもなく愚かしく思えて、楓は自嘲する。
 独りごちた言葉は雑踏の中に消え、楓はツンとする鼻をすすりながら駅を目指したのだった。
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