茨の蕾は綻び溢れる〜クールな同期はいばら姫を離さない〜
「そうね。陽翔と違って私は忙しいもの。特に今日という日はね」

依然として硬い声のままの陽翔の母の声が降り落ちてピクリと百子は反応したが、頭だけは上げてはいけないと言い聞かせた。

「事前に百子と来ることを伝えてあったのにか? しかも別に俺達は決めた時間より前に着いた訳じゃないぞ。相手に失礼のないよう振る舞えって俺は母さんに教わったんだが。違ったか?」

「健二さんと連絡を取ってたの。まだ掛かるから先に始めて欲しいって。それに、今日いらっしゃるのはお客様じゃないでしょう?」

「だからって礼を失する理由にはならない筈だ」

(ど、どうしよう……)

親子の軽い応酬が勃発してしまい、百子は暑い時期にも関わらず背筋を冷やしていた。しかも自分が原因にも関わらず、間に割って入ることもできない。三言ほど何かを言い合っていた彼らだが、唐突に声がこちらに向けられてしまい、小さく声が漏れてしまうのをぐっと堪える。

「貴女、名前は何と言うの?」

温かみの感じられない声がしても、百子は顔を上げずにそのまま名乗る。これほど長く頭を下げていたことは未だかつて無く、腰や背中に痛みが灯り始めていたが、百子はそれを無視してそのまま名乗った。

「はい……許可なく上がってしまい申し訳ありません。お邪魔しております。私は陽翔さんとお付き合いしております茨城百子と申します。本日は……」

「堅苦しい挨拶は結構。それよりも顔を上げなさい」

百子は失礼しますと一声添えてから恐る恐る顔を上げる。陽翔の母がいる場所は百子よりも少し高いが、百子がヒールを履いているために視線は百子の方が僅かに上になる。失礼の無いように真っ直ぐに彼女の意志の強い瞳を見つめると、ややあって陽翔の母はくるりと背を向けて、彼女を振り返って顎をしゃくった。

「最低限の礼儀はご存知なようね。上がりなさい。陽翔もそこにずっと突っ立ってるんじゃありません」

陽翔の母はびしびし言うと、そのまま廊下を歩き出した。百子はお邪魔致しますと軽く頭を下げ、素早く靴を脱いで後ろ手に靴を揃える。突っ立ったままこちらを振り返る陽翔に小さく笑ってみせ、二人は無言で廊下を歩く。涼し気な青紫の紫陽花の小さな鉢が廊下にあるのを見て百子はついつい頬が緩んでしまうが、慌てて口元を引き締める。ヘラヘラしていると思われても困るからだ。
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