茨の蕾は綻び溢れる〜クールな同期はいばら姫を離さない〜
陽翔の母は彼の言葉に眉を顰めるでもなく、憤る訳でもなく淡々と告げた。

「健二さんは会社の用事で遅れてるだけ。あの人しか対処できないから致し方ないわ。陽翔、健二さんは貴方達のことだけを考えてる訳にもいかないの。小さな時から言い聞かせているのに、そちらこそ忘れたの?」

陽翔は相変わらず顔を真っ赤にしていたが、百子は理不尽に思いながらもこっそりと首肯した。祖父が同じことを言っていたのを思い出したからだ。一緒に遊んでいた祖父が電話一本で飛び出してしまい、何度も泣いていたこともある。泣いても帰って来なかったことに失望した百子は、次第に祖父に対して不信感を募らせていった。同じ時間を共有できない悲しみや寂しさは、後で事情を説明されたとて拭えないものであり、祖父は埋め合わせにと旅行に連れて行ってくれたり、ぬいぐるみやお菓子や図鑑や本を買ってくれたりしたが、それでも百子の心の穴は埋まらなかった。

「あら、百子さん。我が家の事情もご存知なの? それなら尚の事陽翔と手を切って下さいな。これは貴女のためでもあるのに」

室温がエアコンの設定温度よりも三度ほど下がった気がした。話を振られた百子は驚いてワンテンポ反応が遅れたが、ゆっくりと話し始める。

「……はい。陽翔さんが教えてくれました。でも陽翔さんと手を切ることは致しません」

きっぱりとしたその声に、陽翔の母どころか陽翔も驚いて百子を見る。

「その事情を知った後も、私は陽翔さんと一緒にいたいと、そう思ったんです。陽翔さんは元彼の浮気でボロボロになっていた私を何も言わずに介抱してくれました。疲弊した心に寄り添ってくれました。二人で協力して暮らして行くうちに、私はこれからも一緒に陽翔と同じ未来を歩んで行きたいと、そう思ったのです。それに……私も陽翔さんの家の事情は少しですが理解できます……私は、私の母は……」

百子が言葉を続けようとしたら、不意にインターフォンが鳴って彼女は口を閉ざす。陽翔の母は百子に一言断りを入れて応対のためにモニターを確認して、二言ほど話すと玄関へと向かったが、既にドタドタと慌ただしい音がリビングまで届いていた。残された二人は顔を見合わせたが、リビングの扉が開けられて音のする方角に目を向ける。

「遅れて申し訳ない。わざわざ遠くからお越し下さったのに、迎える側が遅くなりお詫び申し上げます」

紺色のスーツを着こなした、陽翔よりも僅かに小柄な男性が、百子に向かって頭を下げていた。ごま塩色なその頭頂は、少しばかり涼し気になっていたが、百子は見てみぬ振りをして否と返答した。
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