恋愛期限
信じられません。
じりじりと照り付ける九月の太陽が肌を刺す。
集中できない状態のまま残り二時間の勤務を終えて外に出ると、駐車場には宣言通り車が止まっていた。
一番遠いスペースで待っていたその車を入口で見つけて、私は一瞬だけ足を竦ませる。
仕事が終わってすぐ、着替えるのもそこそこに出てきてしまった。
どうして私は突然現れた人との一方的な約束を守っているんだろうと心底思うが、生まれ持った性格というか性分というか。
(どうせ、うやむやに出来なさそうだし)
多分ここで無かった事にしてスルーしようとしてもまた追ってきそうだ。
私のそんな予感を裏付けるように車の運転席のドアが開いた。
私が店を出たのとほぼ同じタイミングだった。
姿を見せたのは、さっき自称健斗君と一緒に来ていた人だった。
私の姿を確認すると軽く頭を下げて、私の方へ近づいてくる。
ばっちり目が合った以上もう無視する訳にもいかない。
私も一歩づつ確実に足を踏み出して行く。
処刑台にでも上っていく気分だ。
(もう……)
どうしてトラブルって、こう立て続けに起きる様になってるんだろうか。
「こんにちは。今日は急にお時間取らせてしまってすみません」
やがて私の元まで辿り着くと、やんわりと言って彼は穏やかな微笑みを浮かべた。
二時間前の彼の印象とは大分違う気がして、ちょっと戸惑ってしまう。
さっきはもっと無表情というか、冷たい感じがしたのに。
「あ、いえ、こちらこそ……」
いや、何で私が謝ってるんだろう。
普通に考えればおかしな事だったけど、丁寧に接されるとそれ相応の対応をしたくなるのが多分人情というものだろう。
「お仕事お疲れ様です」
さらにそんな言葉まで掛けられてしまえば、もう逃げるなんて選択肢は無くなってしまっていた。
一瞬だけ立ち止まった後、私達はまた車に向かって並んで足を進める。
暑いですね。明日も暑くなるみたいですよ。そうですか、まだ八月が終わったばかりですからね。
そんな差し障りのない鉄板の会話を交わしている内に、車のドアの前まで辿り着いていた。
案内役の人が(名前が分からないのでそう呼ばせてもらうしかない)後部座席のドアハンドルに手をかける。
そこまで来て、そういえば今重大な事態に出くわしていたのだと我に返った。
まずい、まだ心の準備というものが。
この人の対応に毒気を抜かれて、何となく流れでなしくずしにここまで来てしまったけれど、このドアを開けられたら。
ぎゅっとショルダーバッグを持つ手に力が入った。
もう、今更どう出来るものでもない。そのまま事態を受け入れるしかない。
間もなくドアが開いて、奥の方に座っていた自称健斗君が姿を現した。
じろり、と相変わらず好意的には見えない(本人には自覚はあるのだろうか……)視線を投げてくる。
「おー。お疲れー」
案内役の人が言ったのと同じ台詞を口にして、自称健斗君は寛いでいた姿勢をゆるゆると正した。
すぐ隣には紙袋が数点、彼の太腿に寄りかかって置いてある。
「ど、どうも……」
どもりながら変なイントネーションで返した私に、自称健斗君はすっと目を細めて据わらせた。
――あ、多分これ怒った。今、この人機嫌悪くした。
(何でっ)
何でかは分からないけど何となくそれだけは分かった。
「んな顔すんな。別に取って食いはしねーって」
気を取り直すみたいに自称健斗君は言った。
顎をしゃくって隣の開いていたスペースを示す。
正直、それでもまだ車に乗るまでの勇気は出ず、ドアに手をかけて待っていてくれている案内役の人を見た。
「――どうぞ。中に」
しかし彼にはあっさりとそう返されただけ終わってしまう。事務的な返事だった。
先ほどまでとは明らかに違うぴりっとした雰囲気に、助けを求めようと思ったのがお門違いだった、と気付いた。
穏やかな対応にすっかり思い違いをしそうになっていたけれど、彼は私の味方ではない。そう、あくまで自称健斗君側の人なのだ。
逃げ場なんてない。
案内役の人にまで便乗して促されて、私は重い足を動かす。
失礼します、と小さく声を掛けて後部座席のシートに納まる。
バタンと音を立ててドアが閉められた。案内役の人が車の後ろを回り込んでいく。
(ゆ、誘拐……)
もしかしなくてもこれはそれに近いんじゃないんだろうか。
(い、いや、大丈夫、流石に殺されたりは……しないだろうし)
紙袋を隔てて隣に悠然と座っている自称健斗君を見ると、目が合った瞬間彼はつい、と視線を逸らした。
え?今の失礼、凄く失礼。
自分が勝手に来て私を無理やりな形でここに連れ込んでるくせに。
さっきも何か急に機嫌損ねた反応したし、もう訳が分からない。
理不尽さに対する怒りで――でも逆に恐怖が少し消えていった気がした。
更にタイミング良く、自称健斗君が声を掛けて来る。
「――お前さ。何でそんなにさっきから俺に対して他人行儀なの?」
ストレートな質問に上手い答えが見つからず、私はうっと言葉に詰まって黙るしかなかった。
いや、だってこの状況だったら誰だってそうなるのが普通だと。自分のやってる事の重大さ分かってるのかなこの人。
「敬語やめろ気持ち悪い」
具体的な指摘をして、自称健斗君が口を閉ざす。
前の運転席のドアが開いて、案内役の人が車に乗り込んで来た。
「お待たせしました。どこかに寄られますか?」
自称健斗君に短く次の目的地を訊ねて、シートベルトを締める。
「いや、このままマンションでいい」
自称健斗君も短くそう答える。
――マンション?え?何処の?
「あ、あの」
飛び出た一言に、私はごく当たり前の疑問を持って、話かける。
「マンションって……?だ、誰の?」
機嫌を損ねないように、言われた通り敬語は取った。
「俺のだろ」
自称健斗君は目を丸くして、ここからだと一時間半位かなーと呟く。
「私も一緒に?今から?」
自分の認識が間違ってないか、一つづつ確認する。
「何?他に寄りたい所あんの?」
なんて、自称健斗君がピントの外れた返答をして来たので私は心の中で違う!と叫んだ。
二時間前、店の中でもこんな感じのやり取りをした気がする。同じ感覚味わった気がする。
「何で!?どうして!?」
そして自分の発言も、彼の質問の答えになってない。
駄目だ。これ、会話が成立してない。
自称健斗君もそう思ったらしい。
「日向」
会話の対象を運転席に座っていた人物にさっと変更して、一言だけそう告げる。
それだけで全て理解して、運転席に座っていた人はサイドブレーキを下ろして車を発進させ始めた。
案内役から運転手役に早変わりしたその人の名前が日向さんだという事は分かった――という話は今はどうでもいい。
申し訳ないけどどうでもいい、とりあえず今は車を止めて、お願い日向さん。
切実な願いは聞き届けられるはずもなく、車はウインカーを表示して左折し、道路へ出て行く。
三人とも口を閉ざしてしんと静まり返った車の中で、自称健斗君が口を開いた。
「『何で』って……当然だろ」
じっと私を見て、健斗君が駄目押しした。
「結婚するんだから」
ぶつかったのが思いのほか真剣な眼差しで、しかも本当にそれが確定している風に言われてしまって。
有無を言わさぬ威圧感に、私はそれ以上の反論の言葉が出て来なくなってしまった。
――おかしい。とても不本意なことを強要されているはずなのに。
「あの……あなた、本当に健斗君?」
「だから最初っからずっとそうだって言ってるだろ」
間髪入れずに健斗君が肯定してくる。
「だって、健斗君は昔っから小っちゃくて、施設の皆からよくからかわれてて、よく泣いてて、それで……」
――それで、そんな健斗君を、私はよく助けていた。
そこまで言うと恩着せがましくなると気付いて、出かかった言葉の最後ををぐっと呑み込む。
「何年前の話だよそれ。いい加減情報アップデートしろって」
健斗君は一つ息をついて窓の外に顔を向ける。
確かに年月は経っている。
十三年も経てば勿論人は変わるし成長する。それは理論としては理解出来る。
でも、今目にしているこの精悍な横顔が――私の記憶の中にあるあの健斗君と同じ人物の物とは、私にはやっぱり信じられなかった。
集中できない状態のまま残り二時間の勤務を終えて外に出ると、駐車場には宣言通り車が止まっていた。
一番遠いスペースで待っていたその車を入口で見つけて、私は一瞬だけ足を竦ませる。
仕事が終わってすぐ、着替えるのもそこそこに出てきてしまった。
どうして私は突然現れた人との一方的な約束を守っているんだろうと心底思うが、生まれ持った性格というか性分というか。
(どうせ、うやむやに出来なさそうだし)
多分ここで無かった事にしてスルーしようとしてもまた追ってきそうだ。
私のそんな予感を裏付けるように車の運転席のドアが開いた。
私が店を出たのとほぼ同じタイミングだった。
姿を見せたのは、さっき自称健斗君と一緒に来ていた人だった。
私の姿を確認すると軽く頭を下げて、私の方へ近づいてくる。
ばっちり目が合った以上もう無視する訳にもいかない。
私も一歩づつ確実に足を踏み出して行く。
処刑台にでも上っていく気分だ。
(もう……)
どうしてトラブルって、こう立て続けに起きる様になってるんだろうか。
「こんにちは。今日は急にお時間取らせてしまってすみません」
やがて私の元まで辿り着くと、やんわりと言って彼は穏やかな微笑みを浮かべた。
二時間前の彼の印象とは大分違う気がして、ちょっと戸惑ってしまう。
さっきはもっと無表情というか、冷たい感じがしたのに。
「あ、いえ、こちらこそ……」
いや、何で私が謝ってるんだろう。
普通に考えればおかしな事だったけど、丁寧に接されるとそれ相応の対応をしたくなるのが多分人情というものだろう。
「お仕事お疲れ様です」
さらにそんな言葉まで掛けられてしまえば、もう逃げるなんて選択肢は無くなってしまっていた。
一瞬だけ立ち止まった後、私達はまた車に向かって並んで足を進める。
暑いですね。明日も暑くなるみたいですよ。そうですか、まだ八月が終わったばかりですからね。
そんな差し障りのない鉄板の会話を交わしている内に、車のドアの前まで辿り着いていた。
案内役の人が(名前が分からないのでそう呼ばせてもらうしかない)後部座席のドアハンドルに手をかける。
そこまで来て、そういえば今重大な事態に出くわしていたのだと我に返った。
まずい、まだ心の準備というものが。
この人の対応に毒気を抜かれて、何となく流れでなしくずしにここまで来てしまったけれど、このドアを開けられたら。
ぎゅっとショルダーバッグを持つ手に力が入った。
もう、今更どう出来るものでもない。そのまま事態を受け入れるしかない。
間もなくドアが開いて、奥の方に座っていた自称健斗君が姿を現した。
じろり、と相変わらず好意的には見えない(本人には自覚はあるのだろうか……)視線を投げてくる。
「おー。お疲れー」
案内役の人が言ったのと同じ台詞を口にして、自称健斗君は寛いでいた姿勢をゆるゆると正した。
すぐ隣には紙袋が数点、彼の太腿に寄りかかって置いてある。
「ど、どうも……」
どもりながら変なイントネーションで返した私に、自称健斗君はすっと目を細めて据わらせた。
――あ、多分これ怒った。今、この人機嫌悪くした。
(何でっ)
何でかは分からないけど何となくそれだけは分かった。
「んな顔すんな。別に取って食いはしねーって」
気を取り直すみたいに自称健斗君は言った。
顎をしゃくって隣の開いていたスペースを示す。
正直、それでもまだ車に乗るまでの勇気は出ず、ドアに手をかけて待っていてくれている案内役の人を見た。
「――どうぞ。中に」
しかし彼にはあっさりとそう返されただけ終わってしまう。事務的な返事だった。
先ほどまでとは明らかに違うぴりっとした雰囲気に、助けを求めようと思ったのがお門違いだった、と気付いた。
穏やかな対応にすっかり思い違いをしそうになっていたけれど、彼は私の味方ではない。そう、あくまで自称健斗君側の人なのだ。
逃げ場なんてない。
案内役の人にまで便乗して促されて、私は重い足を動かす。
失礼します、と小さく声を掛けて後部座席のシートに納まる。
バタンと音を立ててドアが閉められた。案内役の人が車の後ろを回り込んでいく。
(ゆ、誘拐……)
もしかしなくてもこれはそれに近いんじゃないんだろうか。
(い、いや、大丈夫、流石に殺されたりは……しないだろうし)
紙袋を隔てて隣に悠然と座っている自称健斗君を見ると、目が合った瞬間彼はつい、と視線を逸らした。
え?今の失礼、凄く失礼。
自分が勝手に来て私を無理やりな形でここに連れ込んでるくせに。
さっきも何か急に機嫌損ねた反応したし、もう訳が分からない。
理不尽さに対する怒りで――でも逆に恐怖が少し消えていった気がした。
更にタイミング良く、自称健斗君が声を掛けて来る。
「――お前さ。何でそんなにさっきから俺に対して他人行儀なの?」
ストレートな質問に上手い答えが見つからず、私はうっと言葉に詰まって黙るしかなかった。
いや、だってこの状況だったら誰だってそうなるのが普通だと。自分のやってる事の重大さ分かってるのかなこの人。
「敬語やめろ気持ち悪い」
具体的な指摘をして、自称健斗君が口を閉ざす。
前の運転席のドアが開いて、案内役の人が車に乗り込んで来た。
「お待たせしました。どこかに寄られますか?」
自称健斗君に短く次の目的地を訊ねて、シートベルトを締める。
「いや、このままマンションでいい」
自称健斗君も短くそう答える。
――マンション?え?何処の?
「あ、あの」
飛び出た一言に、私はごく当たり前の疑問を持って、話かける。
「マンションって……?だ、誰の?」
機嫌を損ねないように、言われた通り敬語は取った。
「俺のだろ」
自称健斗君は目を丸くして、ここからだと一時間半位かなーと呟く。
「私も一緒に?今から?」
自分の認識が間違ってないか、一つづつ確認する。
「何?他に寄りたい所あんの?」
なんて、自称健斗君がピントの外れた返答をして来たので私は心の中で違う!と叫んだ。
二時間前、店の中でもこんな感じのやり取りをした気がする。同じ感覚味わった気がする。
「何で!?どうして!?」
そして自分の発言も、彼の質問の答えになってない。
駄目だ。これ、会話が成立してない。
自称健斗君もそう思ったらしい。
「日向」
会話の対象を運転席に座っていた人物にさっと変更して、一言だけそう告げる。
それだけで全て理解して、運転席に座っていた人はサイドブレーキを下ろして車を発進させ始めた。
案内役から運転手役に早変わりしたその人の名前が日向さんだという事は分かった――という話は今はどうでもいい。
申し訳ないけどどうでもいい、とりあえず今は車を止めて、お願い日向さん。
切実な願いは聞き届けられるはずもなく、車はウインカーを表示して左折し、道路へ出て行く。
三人とも口を閉ざしてしんと静まり返った車の中で、自称健斗君が口を開いた。
「『何で』って……当然だろ」
じっと私を見て、健斗君が駄目押しした。
「結婚するんだから」
ぶつかったのが思いのほか真剣な眼差しで、しかも本当にそれが確定している風に言われてしまって。
有無を言わさぬ威圧感に、私はそれ以上の反論の言葉が出て来なくなってしまった。
――おかしい。とても不本意なことを強要されているはずなのに。
「あの……あなた、本当に健斗君?」
「だから最初っからずっとそうだって言ってるだろ」
間髪入れずに健斗君が肯定してくる。
「だって、健斗君は昔っから小っちゃくて、施設の皆からよくからかわれてて、よく泣いてて、それで……」
――それで、そんな健斗君を、私はよく助けていた。
そこまで言うと恩着せがましくなると気付いて、出かかった言葉の最後ををぐっと呑み込む。
「何年前の話だよそれ。いい加減情報アップデートしろって」
健斗君は一つ息をついて窓の外に顔を向ける。
確かに年月は経っている。
十三年も経てば勿論人は変わるし成長する。それは理論としては理解出来る。
でも、今目にしているこの精悍な横顔が――私の記憶の中にあるあの健斗君と同じ人物の物とは、私にはやっぱり信じられなかった。