彼ラン!〜元許婚が逃げ込んできたので、匿うつもりがなぜか同居することになりました〜



「……」

「……」

「………あの」


根負けしたお兄ちゃんが依子さんを迎え入れて、一体どれくらい経っただろう。
数分だったとは思うんだけど、心臓が沈黙に耐えかねた私は一番に声を発した。


「……まゆり、です」


はじめまして、とは言えなかった。
彼女と会うのは、最初で最後にしてほしかったからだ。


「そうね。あなたは、本当にまゆりちゃんみたいね」


そして、そうはならないと分かってたからこそ、願ったんだ。


「でも、まゆりちゃんが彼女であるかは、疑わしいわね。だって、兄妹なら、同じ家に住むくらい訳ないもの。お兄ちゃんのシャツを借りたふりするのも、まったくの他人よりは可能。ね? 」

「……依子さん」


現れた依子さん――本物の婚約者さんは、言わずもがな綺麗で品があって、大人の女性だった。
お兄ちゃんよりも少し、年上なのかもしれない。
お兄ちゃんの声が、私に話しかけるよりもぐっと低く落ち着いた声になって、敬語で丁寧に話しかけて――さん付けで彼女を呼ぶたび、胸がきゅっと苦しくなる。


「彼女を威圧するの、やめてもらえますか。いきなり、知らない女性が乗り込んできただけでも不安なのに」


正確に言うと、いつ来るんだろうとは思ってた。
だから、心の準備はあったはず。
でも、それはまさか、今日のこんな真夜中だとは思わなくて。
すっぴんの徹夜続きの冴えない顔に眼鏡をして、可愛いパジャマでも、ましてやお兄ちゃんのシャツでもなくて、ヨレヨレの着古した部屋着を着てお兄ちゃんの陰に隠れてる。


「挨拶してただけよ。ライバルなんだから、こんばんはー! ……みたいにならないだけ。そもそも、哉人くんがさっさと部屋に入れてくれないのが悪いんじゃない」


こんな夜中に挨拶しに来るのが非常識なのは別として、依子さんの言い分は正しい。
私にはじめましてが言えないように、依子さんもよろしくねとは言えるわけない。
私が怯えてみえるのなら、それはきっと。


「随分可愛い子ね。いくら幼なじみだからって、犯罪ギリギリって感じ」


依子さんが大人で、美人で、色っぽくて。


(……お兄ちゃんの隣、こんなに似合う人見たことない)


――私じゃ太刀打ちできるわけないって、足が竦んで動けないからだ。


「……余計なお世話ですよ」


おばさんが、ううん、あの家が選んだ女性だもん。
それなりにすごい人なんだろうな、って覚悟はしてた。
家柄だけじゃなくて、顔もスタイルも。
知性のある色気って言うんだろうか、いやらしくない色香のある女性。
もともとネガティブな私は、これ以上ないくらいの完璧な人を想像してた。


(……なのに、それよりもずっと完璧すぎるよ)


私が絶対似合わない服、髪型、メイク。
どれもこれも、完璧な依子さんをもっと完璧にしてる。
きっと、どれだけ私が準備万端で挑んだとしても、無意味なくらい――……。


「まゆりの可愛いさは、依子さんにも見えてるとおり。……でも、まゆりのオトナのところは、俺しか見れなくていい。……あなたに関係ないでしょう」


髪を梳いていく指が毛先まで辿りついて、そのまま耳を撫でられてピクンと震えたのを隠すように、お兄ちゃんの腕に頬を寄せる。


「そこを何とか、見せてほしいくらいだけどね。言ったとおり、他人じゃなければ彼女のふりなんて簡単でしょ。ましてや、黙ってればハイスペックなんだし。お願いすれば、大抵のことはしてくれる……」

「……馬鹿にしないでください」


確かに、お兄ちゃんみたいな人から恋人のふりを頼まれたら、二つ返事で了承したくなるものかもしれない。
でも、私にはそんなに簡単じゃなかった。
だって、それは。


「スペックだけじゃなくて、お兄ちゃんは喋ってても格好いいです。依子さんだってそうで……そんな人に子どもだって言われたら、言い返せないけど。でも……あなた、本当にお兄ちゃんのこと好きなんですか? そんな人に、とやかく……」

「いいえ」


(……え? )


それは、質問じゃなかった。
だから、どこに対しての返事なのか理解できないでいると、依子さんは少し面倒くさそうに髪を掻き上げて言った。


「だから、“いいえ”よ。別に、哉人くんが大好きだからここにいるわけじゃない。でも、必要性があるの。……それで、お嬢ちゃん」


――あなたの答えは?



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