彼ラン!〜元許婚が逃げ込んできたので、匿うつもりがなぜか同居することになりました〜
現・甘々婚約者(偽)
(一睡もできなかった……)
しゅるりと、ネクタイを襟に通した音が響いた。
こんなに広い部屋なのに、妙に耳に残る音が生々しい。
現実逃避にまだベッドにいたいのを、咎めるみたい。
「まゆり? 起きた? そろそろ起きないと遅刻するよ。俺が出る時間に間に合うなら、会社まで送ってあげるけど」
ちょっと意地悪な声が近づいてきて、ぎゅっと目を瞑る。
でも、かなり遅かったのか、お兄ちゃんは苦笑して。
まだ私が横になったままのベッドに、腰を下ろした。
「おはよ。……緊張して眠れなかった? 」
バッと布団を顔まで被ったのに、「おはよう」を言って頭を撫でてくる。
「ん……」
眠れるわけない。
いきなり大昔の許婚に再会した(……というか、押しかけてきた)と思ったら、家に連れ込まれるなんて。
いくら、一人暮らしを始めてかなり図太くなった私といえども、ほとんど知らない男性の部屋でぐーすか眠れるわけ……。
「う・そ・つ・け♡」
「いたっ……痛いから……! 偽物とは言え許婚、しかもこんな年下の女の子にすることじゃないし……! 」
ぐしゃぐしゃ、わしゃわしゃと髪を乱暴に掻き乱し、堪らないと布団から抜け出したところを捕まえられた。
「偽物っていうか、本当に婚約者だろ、まゆりは。年下も何も、俺はちゃーんと女性だと思ってるけど」
「そっちこそ、嘘じゃないですか! これのどこが、女性扱い……っ」
「あ、そ。そういうこと言うなら……っこいしょ」
「ちょっと……っ? 」
ベッドから下りて逃げようとした身体を、結構強引に――そっと、後ろから抱っこされた。
「……年寄りみたいですよ」
「どうせ、まゆりにはオジサンだもん。よちよち。拗ねない、拗ねない。っていうか、拗ねたいのは俺の方だよ。おじいちゃん扱いは、酷いだろ」
(……そんなの、してない)
ベッドの上、後ろから抱かれて。
耳元で囁かれて、おじいちゃん扱いどころか、怖いとか気持ち悪いとすら思ってないなんて、どうかしてる。
「おまけに、夜中様子見に行ったら、お前爆睡してるんだもんな。……ったく、人の気も知らないで」
「うそ!? ……就寝中に部屋に入るとか、反則ですよ」
耳朶を優しく指で弾かれて、ピクンとしたのを満足そうに笑われた気がする。
「何のだよ。ここ、俺の部屋なんですけど。まあ、泣いてたりしないで安心したけどな」
クスクスと笑って、でも、やっぱり心配だと言うように、私の頬を自分の方へと指で誘導する。
「ほら。早く支度しな? 朝食ほとんど準備できてるから、仕上がるまでに起きて来なかったら……」
「……ら? 」
几帳面さと裕福さが一目で分かるシャツ、ネクタイ。
ましてや抱っこされてる男の人の顔なんて、見上げることもできないのに。
どうして、ぐずぐずしてしまうんだろう。
お兄ちゃんに甘えてた、あの頃を思い出すのかな。
それとも、まさかとは思うけど、今の哉人さん――男の人としてのお兄ちゃんに、温もりを求めてたりするのか――……。
「……にーにが、無理やり着替えさせるけど。いいの? なら、ほら。ばんざ……」
――な……?
「っ……いいわけないですっっ……!! 」
(……な、わけないし……!! )
「残念。まゆりのことだから、素直にバンザイしてくれるかと思ったのに」
「………馬鹿にしてます? それとも、見下してるんですか」
いや、いたのかな。
私みたいに抜けてるって意味じゃなく、哉人さんを本当に好きで、それを求めちゃう女性だって。
「違うって。呆れてはいるし、ちょっと怒ってるけど。馬鹿にしてはない」
「……なんで、哉人さんが怒るんですか」
怒りたいのはこっちだ。
そんなふうに、ふざけてベッドで服を脱がせようとするなんて。冗談でやっていいことじゃない。
「可愛いから。あと、昨日言ったこと、もう忘れてるから」
昨日。
そうは言っても、怒涛の展開はめちゃくちゃすぎて、脳のキャパシティを振り切れるほどオーバーしまくって、疲れて眠ってしまった。快眠はそのせい。
「言ったばっかりだろ。にーには狼さんでちゅよ。……まゆりには、優しいけどな」
「〜〜っ、自分で優しいとか言う善人、見たことないんですけど……! あと、幼児言葉やめてください……!! 」
(……この人、一体何があったんだ……)
本当に「にーに」だった頃は、そんなこと言ってなかったはず。
何か、精神病むようなことでもあったんだろうか。
いや、知りたくもないけど……!!
「残念でした。……俺は、善人ではないよ。ただ、お前には甘いし、優しいだけ」
こめかみの辺りで、今、なんか。
ちゅって音したような――……!?!?
「ほーら、時間切れ。お着替えされたくなかったら、さっさと起きて準備して」
睨むことなんてできないほど、丸くなった目を見て笑うお兄ちゃんは。
(……やさしい、のかな)
音に驚いたけど、本当はきっと。
どこにも、唇は触れてなかった。