彼ラン!〜元許婚が逃げ込んできたので、匿うつもりがなぜか同居することになりました〜
『ごめん。迎えにも来たいけど、かなり待たせると思うから車寄越すな。あ、でも。乗る前に俺に連絡して。万一違ったら危ないし』
そんな申し出、全力で辞退したけど、お兄ちゃんは譲らなかった。
『だーめ。これも演技のひとつだから。運転士がお前のこと見たら、絶対親に話したくなるだろうし。行き先が俺の部屋なら、確実だろ。だから、大人しく送迎されて』
『でも……』
お抱え運転士さんなんて、どこの世界の住人。
家を出て長い私には、もはや異世界だ。
『でも、はなし。報酬分、ちゃんとやるように』
それを言われると、何も反論できない。
家賃半年分は確かに振り込まれたし、今のところその代償が高級ホテルみたいな寝室と、会社の送迎だけなのだ。
(控えめに言って、最高じゃない?? )
いや、ダメ。ダメだってば。
そういうのが嫌で、逃げてきたんでしょ?
自分の足で立つんだって、自分の力で生きて、自由を手にして。
これからの人生、好きなことして生きていくんだって――……。
「何ぼーっとしてるの。電話鳴ってるんだから、取って」
「す、すみません」
上司の「いつも、ぼんやりしてるんだから」っていう、あんまり小さくはないブツブツを聞きながら、社名を名乗る。
(仕事は仕事。集中しなくちゃ)
どんなに非日常なことが起きようと、自立するには仕事は不可欠だ。
(……でも)
それが、好きなことならよかったのにな。
暗に使えないと背中でボヤかれることなく、初対面どころか会ったこともない他人に、電話で怒鳴られることもなく。
ただ、好きなことだけで生活できたら、どんなにいいだろう。
もちろん、いくら世間知らずだったとしても、すぐにそう上手くいくはずもないことは分かってた。
でも、それは当時の「今すぐ」じゃないだけで、あの頃の「いつか」である現在には、もうそろちょっとくらい叶っている予定だったのに。
(……とりあえず、やるべきことをやらなきゃ)
一日は短すぎて、それを差し引くとほとんど時間は残らないとしても。
・・・
(……疲れたぁ……)
あの後、頑張ろうと自分を奮い立たせるたびにクレームを引いた。
どんなに理不尽だったとしても謝り続けるしかないなんて、この国はどうかしてる。
「……あ」
あの車、お兄ちゃんと同じ。
詳しくなくても伝わる高級感を見て、ちょっとほっとするなんて、我ながらおかしな適応能力に長けている。
でも、ここからだとドライバーの顔は見えない。
いきなり近づくのも怖いし、言われたとおりお兄ちゃんに連絡して――……。
「まゆりちゃん」
聞きたくもないのに忘れられない声が、一度しか呼ばれてないのに脳内で何度もリピートする。
「よかった。やっと会えた」
待ち伏せしてずっと待てば、会える確率はほぼ100%だ。
こっちは、それでもどうにかその確率を下げようと必死だったのに。
自己嫌悪に陥っている、今は特に。