虐げられ未亡人はつがいの魔法使いに愛される
それからの二人
二人は懐かしの宿屋にいた。アンリがイベリスの花の香りを辿って迎えに来てくれたあの日に泊まった宿だ。
今夜も帳簿に「イリス・ミィシェーレ」と記入したが、あの日と異なるのはイリスが本当にミィシェーレ夫人になっていることだった。
二人はベルトラン領から帰っているところだった。
ベルトラン領から王都までは一日はかかる。どうせ宿泊するならと思い出の宿を取ってみたのだ。
ベルトラン領に訪れたのは理由がある。
数日前に、新しいベルトラン辺境伯からの手紙が届いたからだ。
一ヶ月前、ベルトラン家の処罰が下った。アピス隠匿罪はこの国では大罪である。フローラ殺人予備罪とみなされるからだ。
今回はアピスであるイリス自身が申請を希望しているにも関わらず監禁したこと、理由が極めて身勝手だったことから重い罪と認められた。
首謀者ではなくとも協力したとして、義姉夫婦や使用人も投獄された。
義父の爵位は剥奪され、長男であるイリスの元夫は既に亡くなっているので、義父の弟が引き継ぐことになった。
彼がベルトラン領を引き継いでまず目の当たりにしたのは、やる気のない採掘場の作業員たちの姿だった。
主が投獄され不在だからサボっているだけかと考えていたが、新しい主が現れても彼らの働き方は変わることがなかった。報告書によると彼らは勤勉だったはずだが。
彼らに聞くと、彼らが真に仕える相手はベルトラン辺境伯ではなく、その義娘であるイリスだったと言うではないか。
彼女はある日突然あらわれて鉱脈を引き当てた。彼らは薄暗い山道を延々と彷徨うことがなくなった。彼女は鉱脈を当てた後は皆に混じって土まみれで精錬作業を行った。
彼女は彼らの仕事を楽にするだけでなく、辺境伯家の夫人であるにも関わらず彼らに別け隔てなく接し、彼らと同じ服を着て同じ物を食べた。
救世主でもあり、オアシスでもあり、涙を誘う相手でもあった。いつか彼女に幸福が訪れることを祈って共に働いたのだと、彼らは語った。
義父はイリスに対しては酷い人間ではあったが商才には優れており、その弟でもある新しいベルトラン辺境伯も優れた実業家だった。
彼はイリスに商談を持ちかけるために、ベルトラン領に招いたのだった。
「みんなに会えて嬉しかったわ」
今日の出来事を思い出してイリスは笑みを浮かべた。
アンリが迎えに来てくれた日から二ヶ月、彼女もまた採掘場の作業員たちを心配していた。皆よくしてくれていたのに挨拶もなく立ち去ってしまったし、辺境伯をなくし探索魔法もなくした彼らの環境はどうなっているのだろうかと。
新しいベルトラン辺境伯は作業員の話を聞き、イリスのことをよく理解していた。普通ならば考えもつかないだろうがイリスをまず採掘場に案内してくれたのだ。
作業員たちは皆イリスの無事と幸せを心から喜んでくれた。
二年の間にイリスはアンリに置いていかれたと思っていた。ずっとずっと遠くにアンリは進んでいて、自分は何も進めていないのだと。
でも、違った。イリスの二年間は決して無駄ではなかったのだ。
そして、ベルトラン辺境伯はイリスに取引を持ちかけた。
それは二月に一度、ベルトラン領地を訪れることだった。
作業員に顔を見せ、できれば鉱脈を探しあてるため探索魔法を使ってほしいという要望だった。
二日ほど滞在するだけで、ベルトラン領地の収入の十%をイリスに支払うという破格の内容だった。
イリスはベルトラン家には悪感情しかなかったが、ベルトラン領地の人々のことは好きだった。といっても採掘場にしか知り合いはいないのだが。
無償でもそれくらいのことはしたいと思っていたので、すぐ書類にサインをした。
「これで花蜜病の研究費が出来たわ」
探索魔法でアピスとフローラを見つけても不幸せが待っていることもある。イリスにとっては奇跡の魔法だったが、もし逆だったら?
アンリと幸せな日々を送っているなかでベルトラン家送りにされる運命だってあったかもしれないのだ。
目指すものは、花蜜病の根本的な治療だ。
しかしこの奇病は奇跡的な側面もある。花蜜病チームを立ち上げて動き出したイリスは、フローラが申請しなかったというすずらんのカップルに話を聞いていた。
彼らも結ばれることのない運命のはずが、花蜜病によって結ばれたというのだ。
花蜜病が悪だとは一概には言えないとイリスは思った。花蜜病の持つ可能性をもっと知りたい。幸せの形は人それぞれなのだから、選択肢は増えれば増えるほどいいはずだ。
そのためには資金も必要だ。ベルトラン領からの収入はありがたく花蜜病の研究に使わせてもらう。
「ほんとにイリスには敵わないなあ」
アンリの拗ねた声が背後から聞こえる。
「いつまでそうしているの?」
部屋に入ってからずっとアンリはイリスを後ろから抱きしめてる。手を洗う時も、荷物の整理をするときも、書類をまとめているときも。もう三十分はこうして抱きついている。
今は書類の整理を終えて立ち上がったところだが、やはりアンリもそのままついてきて抱きついている。
「だめ?」
アンリの方を見るとまたいたずらな顔をしている。イリスはこの顔に弱い。
「だめじゃないけど」
アンリはイリスの首筋に顔を埋めた。くすぐったさに身を捩るがしっかり抱きしめられている。
「イリスがあんなに男だらけの環境にいたなんて」
アンリは顔を埋めたまま喋り始めるから、肌がざわつく。
「そりゃ採掘場だもの。男性しかいないわ」
「みんなイリスのことが好きそうだった」
「紅一点だったから好意的に接してくれただけよ」
「ベルトラン領に行くときは僕も毎回ついていく」
拗ねた声のアンリは一体どんな顔をしているのだろうかと、イリスは身体の向きを変えた。向き合ったアンリは思い切りむくれ顔で思わず笑ってしまう。
「もう用事は終わったの?」
「うん、書類の整理も出来たわ。王都に戻ったら申請して完成!」
「じゃあもう今日はやることがないんだね」
そう言うとアンリはイリスをもう一度抱きしめた。
「うん」
「じゃあもうキスしてもいい?」
「そういえばあの日はここでキスしなかったね」
コバルトブルーの瞳が光るから、照れたイリスは少し話を逸らした。
「そりゃそうだよ」
アンリは答えを聞く前にイリスにキスをした。必死で受け入れるけれどまだまだキスは下手だ。息の仕方はなんとか取得したけれど。
「そりゃそう?」
キスを終えたイリスが聞くとアンリはまたいたずらっこの表情に戻った。
「あの日はキスだけの自信がなかったから」
「今は自信があるの?」
「今もないけどね」
アンリの笑顔が目の前にある。イリスは質問をするのはもうやめて、そっと目を閉じるのだった。