虐げられ未亡人はつがいの魔法使いに愛される
05 治療
治癒魔法の柔らかい光が部屋に満ちている。
「でも、アンリはどうなるの」
「うーん、僕も死にたくはないから協力はしてもらうことにはなっちゃうね」
申し訳なさそうな顔をイリスに向けてアンリは続けた。
「治療行為として定期的にキスはお願いしないといけない……でも生活までは縛りたくないんだ」
アンリの言いたいことがイリスにはわかった。ここで完全にイリスを手放さないことがアンリの優しさということも。
「でもアピスとフローラの結婚は法律で定められているわ」
「それはアピス側が義務を放棄することがあるから。フローラを守るための法律だ。君なら信頼できる。
僕も出世して今は王族の治療も行っている。かけあってみるよ」
「……」
「先日結婚されたルイ王子も実はフローラなんだ」
「そうだったの!?」
「だからきっと花蜜病患者の気持ちを理解してくれると思うよ」
アンリの言いたいことはわかる、優しさもわかる。
ずっとイリスが求めていた自由を提供してくれようとしている。
でも、なぜこんなに心が落ち着かないのだろうか。
アンリは治癒魔法をいったん止めて、小さな壺から液体を取り出した。
その液体をイリスの指にすりこんでいく。くすぐったい。
「今までずっと働いてきたから、突然それがなくなってすぐには難しいかもしれないけどイリスの好きなことを見つけたらいい」
「……うん」
「やりたい仕事も今から考えたらいい。
イリスは優秀だからどこでも雇ってもらえるし。
働かずにしばらくゆっくり過ごしたいならそれでもいい。
もしベルトラン領地に戻りたいなら、僕も移住して近くに住んでもいいから」
イリスはアンリを見るが、彼は下を向いて治療に集中していて表情は読めない。
アンリの指がイリスの指を滑っていく。触られても全く嫌ではないのに心がざわつく。
「家もすぐには用意できないから、しばらくは僕の家にいてもらわないといけないけど。
男と二人で住むことに抵抗があるなら近くの宿屋を手配する」
「やりたいことが見つかるまではこのお家にお邪魔させてもらっててもいいの?」
「うん、それにイリスが邪魔なことなんて、昔も今も一度もないよ」
薬をすりこみ終わったらしく、アンリは手を離した、アンリの熱が引く。
アンリの言葉も表情も提案してくれる内容も優しいのに、どこか突き放された気がしてイリスの胸のざわざわは収まらなかった。
自分がアピスだと気づいた時、今より良い場所に行けるのなら、相手は誰でもいいと思っていた。
フローラと結婚することは義務だとわかっていたし、その先に選択肢はないと思っていた。
でもそれがアンリだと分かった時、選択肢がないことに密やかに安堵していたのだ。
この一日の間に、アンリとの生活を想像してしまっていた。
学生時代から変わらないアンリと学生時代の延長のような穏やかな未来を過ごせるのだと。
自由にどこでも行っていいよと言われて、すぐに動き出せない。
「はい、治療おしまい」
「わ、すごい。ありがとうアンリ」
黒ずんでいたイリスの手が白くて美しい本来の手のひらに戻っている。
王族の治療も担当しているだけあってアンリの治癒能力はさすがだ。
この指はまるで自分の気持ちのようだともイリスは思った。傷も汚れも全部アンリが癒してくれた。
「じゃあ次は私の番」
「ん?」
「キスしよう、アンリ」
自分から言い出してみたがイリスの顔は熱い。アンリはきょとんとしてこちらを見ている。
「えっ」
「えっ、じゃないよ。キスはしないと」
初めてキスをしてから一度もしていない。フローラとしてこの治療行為をもっと求めてもいいのに。
イリスから言い出さなければ、アンリは言い出さない気がしたのだ。
「アンリお願い」
再会してからずっとアンリはイリスを優先してばかりいる。
「フローラが遠慮してしまうのはわかる。でもこれだけはきちんと受け取ってほしいの」
「うん、ごめん」
「絶対にフローラであることで卑下しないで」
「ありがとう」
そこで二人の会話は止まり、この先をどう動けばいいかイリスは戸惑っていた。
先日の馬車の中がイリスのファーストキスだったし、あの時は流れでそのままアンリがキスをしてくれた。
お互い向き合って座っていて、手をのばせば届く距離だ。
でも、ここからどうやってアンリに触れればいいのかわからなかった。
アンリのブルーの瞳が揺れている。瞳から下に目線をずらすと、彼の薄い唇がある。
この唇とキスをするんだ、と意識すると身体は固まって立つこともできない。
「イリス、無理しなくても、」
「無理してない!」
気遣うアンリの言葉を遮ってしまった。緊張していたとはいえ、彼に嫌な気持ちをさせていないだろうか。
さらに緊張がおそってきて、イリスはちょっとしたパニックになっていた。
とりあえず立ち上がり、一歩進んだ。一歩進むだけでアンリの座っている椅子に突き当たる。
見下ろした先には、アンリがいて心配そうにイリスを見上げている。
「じゃあ、キスするよ」
「うん。……あはは」
イリスの力んだ声に耐えきれないと言った風にアンリは笑った。
「勉強も運動もなんでもできるイリスがこんなにガチガチなの初めて見た」
「……」
「ごめんね、笑って。僕からしようか?」
「私からするわ」
元来負けず嫌いなイリスは意地を張ってしまった。その様子にアンリは目を細めて笑った。
「じゃあ待ってる」
そしてアンリは目を閉じた。伏せられた長い睫を見ると、また意識してしまう。
これは医療行為なんだから、意識する方がおかしいのよ。そう自分に言い聞かせて、イリスは屈んでみた。
アンリは微動だにしないから、イリスから近づかないといけない。
自分からキスをすることがこんなに恥ずかしいなんて。
手は頬に添えたほうがいいのかしら、私は目を瞑っていてもいいのかしら、でもそしたら失敗しないか。
いろんなことがぐるぐる頭の中をめぐって、落ち着こうと思うのに目の前にはアンリの顔があって。
ぎゅっと目を瞑ったイリスはアンリの唇にほんの少しだけ触れた。
「し、したわ」
「それじゃ足りないかも」
目を開けたアンリはいたずらっ子のような表情をしている。
その顔に悔しいけれどドキドキしたイリスはまた顔が熱くなる。
「イリス、自分でできる?」
「できるわ」
「じゃあお願い」
そしてアンリはもう一度目を閉じた。
手はどこに置けばいいのかしら、と悩んでイリスはアンリの肩に両手を置いた。
その手にアンリが片手を重ねてきて、イリスの心臓は飛び上がるかと思った。
その動揺をおさえて身体を傾けてなんとか唇をくっつけた。
すぐに離れようとしたが、いつのまにかアンリの片手は腰にまわり、片手はイリスの手をしっかり握っている。
触れるだけのキスだが、それは数十秒続いてイリスが息が苦しくなったころにアンリは顔を離した。
「ありがとう」
イリスがぎゅっと閉じていた目を開くと、いつもの穏やかな笑みが飛び込んでくる。
「そんなに力を入れたらシワになるよ」
と言ってイリスの眉間を指でツンと押した。
「じゃあ買い物に行こうか。部屋の物とか生活に必要なもの見に行こう」
イリスはまだ動悸が収まらないでいるのにアンリは涼しい顔で立ち上がった。
「そうね」
今のは治療行為だから、アンリからしたら命をつなぐための手段なだけだから。
自分の気持ちを抑えるために心で唱えた。
ドキドキは収まってきたが、ドロリとした気持ちがかわりに広がった。
アンリはフローラだから、アピスのキスを求めているだけ。
自分で言い聞かせた言葉になぜだか自分で傷つく。
離してもらえなかった先程のキスを思い出す。
そんなキスのように、アンリがイリスのことを必要としてくれたなら。
ここから出て行ってもいいよ、ではなく、ここから出て行かないで、と言われたかったのだと気づいた。
この感情が恋ではないと思う、たぶん。
でも二年間、イリスはアンリを忘れたことはなかった。アンリと過ごした幸せな過去が、イリスのつらい生活の支えになっていた。
だから、アンリにもそう思っていてほしかったのだ。
でもアンリはこの二年の間に遠くにいってしまっている。
夢を叶えて、イリスがいなくても充実していた。
きっとアンリがイリスを思い出したのは数えられる程度だろう。
イリスへの優しさなのだけど、こんな感情はワガママだとわかっていても、手放してくれることが、無性に寂しかった。