虐げられ未亡人はつがいの魔法使いに愛される
07 食事
朝食後と夕食後にキスを処方する二人の生活が始まった。
「今日からは仕事に戻らないと行けないんだ」
朝食のスープを飲みながらアンリが切り出した。
「そうなのね」
「イリスはゆっくりこれからを考えて」
「ありがとう」
「アピスの申請なんだけど、本人が行わないといけないらしいんだ。僕はもう申請を済ませてあるから、イリスも今日手続きをしてくれる?」
「わかった、行ってくるわ」
イリスはこっそりアンリの食器の中を見る。もうすぐ食事は終わりそうだ。朝食が終われば……キスの時間だ。
キスのタイミングを決めておけば照れずにできるだろうと思ったが、明確に時間を決めたわけではない。どのように切り出そうか、そればかりをイリスは朝食の時間考えてしまっている。
「今日一日一人で不安?」
イリスの様子に気づいたアンリが声をかけてくる。イリスは首を振って大丈夫だと答えた。
こんなに意識してしまうのは自分だけなのだわ、アンリはこんなにいつも通りなのに。と思ってしまう。
考えている間に食事は終わり、アンリは仕事に向かう準備を始めた。
どうしよう、出かける直前でいいかしら。いってらっしゃいのキスなんてまるで新婚夫婦みたいだわ。と考えてしまい、これは医療行為であって恋人のキスではないのだから、と気持ちを振り払った。
「アンリ、もう行くの?」
「うん。本当に一人で大丈夫?不安そうだけど」
いつのまにかアンリは外出用のローブをつけている。もう出かける時間が近づいているんだろう。
「それは大丈夫」
「本当?久々の王都での生活は不安も大きいだろうから」
「違うの、それは本当に大丈夫で……その……」
「うん?」
もう仕事に行くアンリを心配させてはいけないと思ったイリスは正直に言うことにした。
「キスをするタイミングを考えてたの……朝するって言ったでしょ」
顔が真っ赤になっていることが自分でもわかる。アンリは少し目を丸くして、すぐに細めて笑った。
「そうだった、朝するんだったね」
「忘れてたのね」
やっぱり意識してるのは自分だけだった、ますます恥ずかしくて顔が熱くなる。
「ううん、覚えてたけど……そんな考え込んでると思わなくて。イリスが忘れてると思ってた」
くすぐったそうに笑ったアンリは、少しかがんでから目を閉じた。
「お願いします」
「こちらこそ」
何度キスをしても正解はわからない。どこに手を置くのか、どうやって顔を近づけるのか。世の中のカップルはどうしてこんなに難しいことができるのだろうか。
今回はアンリが背丈を合わせてくれているし、そのまま身体を近づけて気をつけのままでキスをした。三秒ほどの軽いキスだ。
アンリは今朝は素直にされるがままになっていた。キスを終えると屈んでいた身体をもとに戻した。
「ありがとう」
今日もしばらく離してもらえないかも、そんなことを少し考えていたから、あっさりと離れた身体が少しさみしいと思ってしまった。イリスはそんな自分にドキリとする。
「それじゃあ行って来るね。何かあったら職場まで来て」
アンリはイリスの頭に手をポンと置いて、視線を合わせた。キスの後に顔を見るのは恥ずかしい。アンリの穏やかな瞳にイリスがうつっている。
「いってらっしゃい」
・・
イリスは王城でアピスの申請手続きを終えた。既にアンリが事情を説明してくれていたので申請が遅れた件は詳細を聞かれることもお咎めもなくスムーズに手続きはできた。
「申請が遅れるのが二件続くとはねえ」
市民窓口の担当者は中年の男性で、手続きの処理中に話し始めた。
「私たちの前にも同じことがあったんですか?」
「うん、三ヶ月くらい前にね。まあその時はフローラ側が自分の意思で申請しなかったんだけどね」
「まあ、その方は大丈夫だったのですか?」
「一週間遅れて申請があったよ、身体のあちこちにすずらんが生えていたけどそこから進行は止まったらしいね」
「すずらんが……」
アンリはイベリスの花ではなかっただろうか。ペアによって花の種類は変わるのだろうか。そういえば花蜜病のことをイリスはよく知らない。
「自己申告制だから今回や前回のような問題は起きるよなあ。今回もフローラが助かってよかったよ」
人の良さそうなおしゃべり好きおじさんはそう言いながら処理を進めてくれた。
「……本当ですね。今回は遅れてすみませんでした」
「いやいや君も大変だったね。はい、手続きは完了」
国に正式にアピスの登録を終え、担当者にお礼を言って立ち去りながらイリスは花蜜病のことを考えていた。この病気をもっと調べてみたい。
そう思うと同時にお腹の音がなった、お昼を過ぎてお腹は限界らしい。
お腹がすいた、何を食べようかな?――こんなことを考えられるのも二年ぶりだ。
ベルトラン家では作業員や使用人と同じタイミングで同じものをを食べるだけだった。
学生時代に好きだったパン屋に行ってみようか、と思うとワクワクしてきた。
自分だけのために使える時間がある。それは人として当たり前のことなのに、イリスはそんなことさえ忘れていた。
・・
夜、久々に料理を作った。焼き魚とスープとサラダ、それから好きだったパン屋で買ってきたフカフカのパン。
自分で選んだ食材で、自分で作った料理。
イリスはそこまで料理が得意なわけでもないし、簡単なものばかりだったが、一口飲み込むたびに大袈裟だけど力がわいてくる気がした。
二年間の食事はまるで味がしなかった、生きるために食べているだけだった。
そして目の前で同じものを食べてくれるアンリ。
「おいしい。人が作ってくれるご飯は嬉しいなあ」とニコニコ食べてくれている。
そんなアンリを見ると更にお腹はいっぱいになっていく。
そうやって心まで元気になって、身体が満ち足りることを食事だというんだ、とイリスは一口ずつ噛み締めて思った。
食事を終えたイリスはキッチンで後片付けをすることにした。
明日はどんなものを作ろうか、アンリは何が好きかなと考える。
自分の食べたい物を作るのも嬉しいけど、食べてくれる人がいるともっと楽しい。
「イリス」
そんなことを考えながら泡を流しているとアンリがキッチンに現れた。
「アンリ、明日食べたいものある?好きなものとか」
「好きなもの?そうだなあ」
「あ、ちょっとまってね」
会話の前に泡を流してしまおうとアンリに背を向けて、食器を水で注いでいると、気づけばアンリはイリスのすぐ後ろまできていた。あと一歩歩み寄れば身体がぶつかってしまうほどに。
「夜のキスを処方してもらおうかと思って」
すぐ後ろから柔らかいアンリの声が聞こえてきて、イリスは食器を落としそうになった。アンリの声で耳まで真っ赤になる。振り向くのが怖い。
「い、今するの?」
「夕食後だから」
「まだ泡が流せてないわ」
そう抗議したが、アンリの腕は後ろから伸びてきてゆるやかにイリスを抱きしめた。
背中があたたかくなるのを感じてイリスは身を縮める。
片手はイリスのお腹にまわしたまま、もう片手でイリスの顎を探しあてるとアンリはキスを落とした。
水が流れる音以外は何も聞こえない。しばらくしてアンリは顔を離すが、まだ片手はお腹にまわされたままだ。
「僕は今日のコンソメスープが好きだな。また作ってくれる?」
「う、うん」
そのままアンリは会話を始めるからイリスも泡を流しつづけるしかない。といっても、もう泡などすべて流れているのだが。
「家に帰ってきたらイリスがいるの、いいなあ」
アンリの呟きと共に身体は離れてイリスはようやく身体の緊張がとける。
「家事もしてくれてありがとうね」
「居候だから当たり前よ」
「ゆっくりしててくれてもいいのに」
「動かないの嫌なタイプなの」
調子が戻ってきたイリスを見るアンリの表情はやっぱり穏やかで、一人の人間として扱ってもらえることに安堵する。
食事をして、会話をして、ただ当たり前に生活をすることを許してもらえる。それだけで泣きたくなるのだった。