虐げられ未亡人はつがいの魔法使いに愛される

09 初恋の思い出

 

 その日の夜のキスはいつものアンリと違った。

 そろそろ就寝しようかと立ち上がったときに、珍しくアンリが「キスをしてもいい?」と聞いてきたのだ。
 夜のキスはアンリのすきなタイミングでしてきたのに、許可を取るなんて久々だった。

「うん」

 イリスは目を閉じてその場に立ったままアンリを待った。
 ゆるく腰に手をまわしてアンリはイリスにキスをした。いつもように触れるだけのキスは長く、いつものように呼吸が続くなったらイリスはアンリの胸をとんとんと叩いた。

「やっぱり鼻で呼吸できないや。さっきバレたけどキスはしたことなくて
 ……だから下手なの」

 いつもより苦しくて少し涙目になった自分をごまかすようにイリスは笑って言った。コバルトブルーの瞳が揺れる。

「初めてのキスが治療でごめん」

 アンリは思い詰めた顔になる。責めたつもりはまったくないのに。

「ううん、アンリが初めてでよかったよ」

 アンリの胸の中でなら少しだけ恥ずかしい事も言える。もう一度目が合った瞬間、アンリはイリスに二度目のキスをしていた。

 息ができる――とイリスは思った。その口づけはいつもの触れるだけのキスではなかった。息ができるのはイリスの唇が開いているからだ。熱い熱が口内に入ってくる。

「ふぅ、」

 息が漏れる。その息まで食べられるのではないかとイリスは思った。
 このキスは何?動揺したイリスが目を開けるとアンリの瞳はぎゅっと閉じられている。アンリが夢中でイリスを求めてくれている。
 その事実にどうしようもなく嬉しくなってイリスは必死に受け入れた。

 いつもより何倍も長いキスが終わると、アンリはハッとしたように目を見開いた。

「ご、ごめん、本当に。こんなことするつもりじゃなかったんだ」

 アンリの額から汗が浮かんだと思ったら、それは一枚の花びらになった。

「ごめん本当に……。イリスのこと大切にしたいのに」

「大切にされてると思ってるよ」

「でもこんなことして……本当にごめん。今日は寝るよ」

 アンリは思い詰めた表情で自室に行ってしまった。アンリからこぼれた花びらだけがいくつか残っていた。


 ・・


 翌日、アンリはいつも通りの朝を過ごし、そしてパン屋に行こうというくらいの軽い口調で

「イリスの家を探しに行こう」と告げた。

「どうして?」

 アンリはもう出かける準備さえ始めている。イリスは慌てて聞いた。

「昨日イリスにキスをしちゃったから」

 また昨日と同じく思い詰めた表情をしている。

「キスは治療でしょ」

「昨日したキスは治療のキスなんかじゃない、イリスもわかっただろ?」

 アンリの声が鋭くなる。自分を責めている声だった。

「気にしてないよ、私は大丈夫だよ」

「でも僕は大丈夫じゃないんだ。二人で暮らしてキスをするのはもう耐えられない」

 瞳はいつものように輝いていない。彼が思い悩んでいることはすぐに読み取れた。

「アンリ……私なにかアンリを傷つけちゃった?」

「違う。イリスとのキスが治療なのがもう我慢出来ないんだ」

 アンリの言っている意味がよくわからなくてイリスはただアンリを見つめた。

「今だって抱きしめたいと思ってる」

「……」

「学生の頃、イリスのことが好きだったんだ。
でも、とっくに君のことは諦めてた。イリスはもう届かない場所にいるって」

「……」

「それなのに突然イリスが僕の家にいて、毎日僕とキスするんだ。もうわけがわからないよ」

 アンリの言っている意味がわかったような気がしてイリスの心拍数も上がる。まさか、そういうことなのだろうか。

「ただの治療だから簡素に終わらせないといけないのに可愛くて恋人にするみたいなキスをしてしまうし、」

「……」

「イリスを僕の物にしたくなるんだ、一番しちゃいけないことなのに。イリスは傷ついてきたのに」

 アンリの目から花びらが溢れる。白い花びらがはらはらと舞う。
 イリスは花びらの風を受けながら、アンリをぎゅっと抱きしめた。

「私がアンリに抱きしめてほしいからいいの」

 えっ?と開いたアンリの唇を自分の唇で塞いだ。背伸びしてアンリの顔を引き寄せないといけなかったが。何度かキスをしてイリスは離れた。
 自分からでもキスができた。恋しいと思えばいくらでも身体は動くのだとイリスは知った。

「治療じゃないキス、私もしたかった」

 アンリの手を取って自分の頬に添わせる。アンリは驚いてイリスを見つめたままだ。

「アンリが思い悩んでること気付けなくてごめんなさい」

「……」

「私は毎回キスが嬉しかった。アンリが私のこと大切に扱ってくれるたびに自分を取り戻すみたいだった」

「イリス」

 イリスが手を離してもアンリの手は頬に添えられたままだった。
 こうしてアンリが頬に手を置いてくれるのが好きだ。大切に扱われているのを実感するから。


「アンリ、私したいことが見つかったの」

「したいこと?」

「うん、花蜜病の研究がしたいのよ」

 話がガラッと変わってアンリは面食らっているようだが大事なことなのでイリスはそのまま続けた。

「私を迎えに来てくれたとき、探索魔法で香りを辿ったって言ってくれたわよね」

「うん」

「花蜜病はペアごとに花が違って香りも違うみたいなの。それでアンリは辿ってこれたんだけど、アンリみたいに魔力もなく、その方法が思いつかなかったフローラは死んでしまうわ」

「そうだね」

 アンリは真剣に話を聞くモードに入ってくれたらしい。真剣な顔でこちらを見つめている。

「今の自己申告制には限界がある、逃げてしまえば終わりだわ。いつか逃げたことが発覚してアピスが裁かれてもフローラの命は戻らない。
 それを防ぐために申請しなくても居場所がわかるようにしたいのよ」

「僕がやったように?」

「そう。でも私はペアがアンリでよかったけれど、幸せな生活から地獄に転じることもあると思うの」

「幸せな夫婦のどちらかがアピスになるかもしれないからね」

「そうなの。だから結婚というその場しのぎの方法ではなくて、根本的な治療方法も探していきたい。治療方法が見つかるのはきっと何十年もかかるから、その前段階で不幸せなカップリングができたときのために法整備もしたいのよ!」

「大きな夢だね」

「うん、でも私とアンリは学年一、二位の天才だったわ。私たちならできると思わない?」

「僕も?」

 またアンリの顔が驚きに変わる。

「医局には花蜜病を研究してる方もいるでしょう?」

「専門にはいないけどね。結婚制度で保てていたから、謎の病気に時間をかけるよりもやるべきことがあるから後回しなんだ」

「アンリは言ったわよね、ルイ王子も花蜜病になったと。今ならきっと花蜜病に関心も持ってもらえるわ」

「そうは言っても優先順位は低いよ」

「私達の前にもフローラの申告漏れがあったみたいなの。ルイ王子が花蜜病になってそんな例が続いた今なら、私の探索魔法は求められると思う。自己申告に頼る今の制度は破綻しているんだから」

「……」

「探索魔法をもとに花蜜病チームを立ち上げて小さなことから実績を作っていけば、最終的な目標である根本的な治療方法を探す補助金だって出るはずだわ。
 アンリも今は自分の仕事が忙しいと思う、でも最終的な段階では力を貸して欲しい。あなたの治癒魔法が必要なのよ!」

「……イリスには本当に昔から敵わないな」

 アンリはそういいながらも笑顔だ。

「医局の誰もが花蜜病は興味があるよ。でも難しい問題だから手をつけられなかった。目をそむけてたんだ」

「仕事がある人は仕方ないし、私の案は机上の空論だわ。実際に研究を進めたらすぐに投げ出してしまうかもしれない」

「イリスは諦めなさそうだけどね」

「アンリに負けたくないからね」

 学生の頃、二人で競っていた日々を思い出す。勝っても負けても楽しかった。

「私も学生の頃アンリが好きだったの」

 イリスは服の中からペンダントを取り出した。コバルトブルーのペンダントだ。あの後雑貨屋で買い直していた。

「ベルトラン家に行く前に買ってたの、あなたの瞳のペンダント」

「僕の……?」

「この二年でアンリはすごく遠くなっちゃって……。だから、私が本当にこの仕事を成功させて、アンリと並べるようになったら、私と結婚してくれませんか?」

「結婚?」

「うん、花蜜病のペアだから、じゃなくて。そんなもの関係なくアンリと一緒にいたいの。しばらく離れて暮らすことになっても、また初恋から始めてもらえませんか?」

 アンリの顔がみるみる赤くなったかと思いきや、イリスの手を取って歩き出そうとする。

「ど、どこにいくの」

「昨日見たドレスを買いに行こう」

「ま、待って」

 イリスの言葉にアンリはようやく落ち着きを戻して立ち止まる。でも耐えきれないようにイリスを抱きしめた。

「今すぐ結婚しよう」

「でもまだアンリに並べてないわ」

「僕は君に並びたくて、この二年頑張ってようやく追いついたんだ」

 見上げるとアンリの優しい顔がある。今ならわかる。このアンリの顔はイリスが恋しくて仕方ない顔だ。

「ただの治療なのにいつも我慢できずに触れてごめん」

「嬉しかったから大丈夫」

「そうだといいなあとは思ってた」

「ばれてた?」

「……そうだといいなと思ってた」

 二人で顔を見合わせて笑う。もっと早く素直になって、初恋をやり直していればよかったのだ。

「あ、花びらが」

 先程アンリの瞳からこぼれた花びらがイリスの髪についている。
 アンリは花びらを手に取った。白くて甘い香りのする花だ。

「花について調べてたの」

「ああ、ペアによって花の種類が違うんだっけ」

「うん、イベリスはどこかの国では初恋の思い出という意味があるみたいよ」

「思い出にしないけどね」

 アンリはもう一度イリスを強く抱きしめた。こんな風に強く抱きしめられたのは今日が初めてだ。いつもはどこか遠慮していた。

「アンリ、今日の朝のキスをする?」

 言い終わる前にアンリはキスを始めていた。朝のキスはイリスの担当のはずなのだけれど。

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