振り返って、接吻
ちん。軽快な音を鳴らしてとまったエレベーター。降りるのは、社長室と副社長室のある危険なフロア。
「おっはよーゆづるん」
「、」
「ちょ、間髪入れずに閉めるボタン押さないでよ!」
声を聞くなり迷わず閉めるボタンを押す俺に、慌てて外からのボタンで対抗してきた。
待ち構えていたかのように、大きめの丸襟がついたサックスブルーのワンピースを着た宇田が立っているんだから、この会社に安寧の土地は無い。
エレベーターを止めておくのは迷惑行為なので、渋々降りて、宇田の隣に並んで歩き出す。普段の仕事着よりほんのり華やかな今日の宇田。高い位置でポニーテールにしている様子から、今日は人と会う仕事は無いのだろう。アイメイクにもピンクを入れている。
おしゃれをすることが唯一の趣味である宇田は、メイクはもちろん、身に付けるものや髪型にも毎日こだわっている。きちんとTPOをわきまえているおかげで、ファッションによって予定や気分が分かりやすい。
俺は出勤する日はほとんどが黒いスーツだから、おしゃれも何もない。たまに、紺色とか灰色とかも着てみるけど、なんとなく、今の俺にはスーツがいちばん似合う気がする。
今日は灰色のそれを選んできた。よく晴れた5月に真っ黒を着るのも気が引けたから。それに宇田と同じで、俺も今日は人と接する仕事は無いから。