振り返って、接吻



この部屋を使う社長秘書はまだ姿を見せない。気を利かせているのだろうから、ありがたく受け取って、婚約者ふたりのコーヒータイムを過ごすことにした。


「あと、社長のサインが欲しい書類あるから渡すね」


接待用のソファに座りながら、緩やかに会話を誘導していく。正直、俺はかなり緊張していた。


———今日は、宇田凛子の誕生日だ。


それから、宇田のどうでもいい話を聞き流しながら、珈琲を飲んだ。少しずつ目が覚めてくる。宇田が猫を飼いたい話。毛並みの整った美人な猫に鈴をつけて飼いたいらしい。白と灰色どっちがいいかな、と悩んでいる。


「三毛猫のほうが役に立つかもよ」

「うーん、どうだろ、謎解きする機会なんて滅多にないもん」


俺と宇田は、推理小説が好きだった。探偵と刑事になりきって遊んだ記憶もある。宇田が探偵で俺が刑事さん。それも悪くなかったな、と思う。幼馴染同士で私立探偵と刑事になる。けっきょく刑事は探偵に頼って、難解な事件を解決してもらうんだ。なんて。


この会社を設立しなければ、俺らはどんな人生だったのだろう。ご立派に実家を継ぐのが妥当かな、でもそれって簡単なことではないし。今は兄が実家を手伝っているけど、彼はすごく優秀な人だから。


姉と兄はもうすでに既婚者で、どちらも実家で暮らしている。実家といっても広いから、そのなかにそれぞれの家庭があるみたいな感じ。でも、何かあればすぐに家族に会って話せるというのは、まだ幼い兄や姉の子どもたちにも良い影響を与えていると思う。

ちなみに俺の妹は医学部の学生で、彼女も実家から通っている。彼女は隠れてやんちゃだから、そろそろ家を出るんじゃないかなと思うけど。


さいきん家族のことを思い出す機会が増えた。俺にも家族ができるから、だろうか。
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