振り返って、接吻
「出社前に家寄りたいから、もう起きなきゃ間に合わないの!」
「タクシー」
「勿体無いでしょ、由鶴が運転できるんだから」
なにが勿体無いんだよ、オマエそれでも社長だろうが。ていうか、俺の人権どうなってるわけ。
そう言い返したいけれど、朝から大きな声を出して言い返すがしんどい。それに、俺自身もタクシーを使うという行為が苦手だ。あの個室空間で初対面の人とふたりっきりというのは苦痛だ。
俺も、不必要な出費は好きじゃないし。今はそれなりに裕福だとしても、しょせん、金は有限だ。俺も宇田も、かなり裕福な生まれであるため金に困ったことはないけれど、いま、自分の会社を経営している身としてはいつだって油断できない。
などと理由をつけて、俺はしぶしぶベッドから降りた。空調が整えられているとはいえ、冬の朝は肌寒い。また布団に戻りたい気持ちを堪えながら、カーテンを開けて暗い明け方の空を眺めた。
ここまできたら、堕ちるときもあの女といっしょだ。
そう思うと何故か心強いのは、ここだけの秘密。
流れ作業のように適当なスーツに着替えて、寝室を出る。明るいリビングはもうすっかり朝を迎えていて、ダイニングテーブルにはすでにブラックコーヒーとチョコレートが用意されていた。
「起きてくれてありがとう」
昨日と同じスーツに身を包んだその女は、いつもと違って長い髪をひとつに纏めていた。ほっそりした首筋がなんだか毒のように感じて、俺は静かに目をそらす。
移した視線の先にあるコーヒーからは湯気がたちのぼっていて、淹れたてであることに気付かされた。俺がなんだかんだ起きてやるということを全て見越して、時間を逆算していたらしい。
朝食をとるなんて無謀すぎる低血圧人間のために栄養価の高いチョコレートを置いておくその女には、もう一生敵わないのだろう。
「いただきます」
「めしあがれ」
「オマエは何か食べたの」
「いまダイエット中」
「じゃあ、珈琲だけ飲めば?」
宇田は年中無休でダイエットをしているので、そこを深く掘り下げることはしない。余計なことを言っても、そんなの、余計なだけだ。
彼女は“由鶴に言われたから”というポーズでじぶんのカップに珈琲を注いだ。ダイエットには常に言い訳が必要で、俺は進んでその言い訳になってあげるようにしていた。